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  • 「すべてのめぐみをわするなかれ」
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1965
塔65 12/1 729–735ページ

「すべてのめぐみをわするなかれ」

アルベルトワンドレスの経験

私の母は私が7歳の時にストラスブルクで死にました。父は仕事にいそがしく,私たちが父と共に過ごす時間はあまりありませんでした。それでも,夕方に聖書の1章を読むことは私たち家族の習慣となっていました。読んだ聖句に注解の述べられることはありませんでしたが,私の考え方はこの本の影響を次第に強く受けるようになりました。詩篇の103篇,とくにその2節は私の心をとらえ,のちのちまでも私の脳裏によみがえる言葉となりました。「わがたましひよエホバをほめまつれ,そのすべてのめぐみをわするゝなかれ」。―文語。

学校を卒業した1916年当時には,戦争が賛美され,若者たちに対しては志願兵として登録することがすすめられていました。しかしこれは,私が聖書から学んだ事と一致しませんでした。聖書の主題は愛であり,憎しみではありません。星のよく光る晩に私は祈りました,「わが歩むべき道を教えてください。わが魂はあなたを仰ぎ望みます。あなたのみむねを行うことを教えて下さい。あなたはわが神です。恵みふかい,みたまをもって,わたしを平らかな道に導いてください」。(詩 143:8,10)戦場で幾千人もの人が死んでゆくとの知らせは,私にとってさながら悪夢のようでした。神を信ずる者は神に従うべきであると考えていた私は,神を信ずるととなえる人々がなぜ神に従わないのだろうと考えずにはいられませんでした。

暗やみから光へ

世界大戦は急に終わりました。翌年,「創造の写真劇」が私の住んでいたケールの町で上映されました。それは人類に対する神の目的を明らかにした,きわめて美しい映画でした。映画の中では,人間のためになされた地上の準備がまず描かれ,そののち,スタートから現代にまでいたる人類家族の歴史が物語られ,神の国が永遠の祝福を人類にそそぐ前途の様子がそれに続いていました。私はこの映画の音信に動かされました。私の求めていたものがそこにあったのです。すぐに,エルバフェルダー聖書,および「聖書の研究」と呼ばれた聖書研究の手引き書全7巻を注文しました。第1巻「世々にわたる神の経綸」の各章は何度も読みかえしました。この本は地上における罪の時代の暗やみがいかに喜びの朝となって終わるかを示していました。天への招きが明確に説明されているのを知ってどんなに喜んだことでしょう。私はいくつもの節を暗記しました。

数週間後,一奉仕者の訪問を受け,その人から多くの助けを得ました。やがて私は聖書研究の集会に通うようになりましたが,父はこれを好みませんでした。ある晩,夜中まで勉強していた時,父は部屋の戸を開け,すぐにあかりを消せと言いました。父は町で名の知れた商人であり,私の事で物笑いになりたくなかったのです。父は私を家から出すといっておどしました。

私は学んだ真理を固く保とうと決意していましたので,自分の命をエホバに献げ,後に浸礼を受けました。父はいつも私を圧迫しましたが,詩篇 27篇10節の言葉が私を力づけました。「わが父……われをすつるともエホバわれを迎えたまはん」。―文語。

1920年,町に証言に来た全時間伝道者と知り合いになり,その人から多くの励ましを受けました。やがて家を離れねばならなくなりましたが,マンハイムの町に新しい仕事がすぐ見つかりました。ちょうど必要な時に霊的な力を与えられたエホバに深く感謝しました。

自由な時間が多くなり,勤勉に聖書を学び,宣教にも参加するようになりました。周囲から受ける反対は学んだ事柄を固く守ろうとの自分の決意を強めたにすぎません。私は感謝の気持ちに満たされ,エホバの示されためぐみを決して忘れまいと考えました。マンハイムでは,私の生まれた町で証言し,私をいろいろと助けてくれた奉仕者に再び合い,つれだって野外宣教に行くこともありました。何年ものち,この人は最後まで神に忠実を保ちつつモーソーゼン強制収容所で死にました。

やがて私は全時間伝道者となることを強く望むようになりました。「ものみの塔」1923年1月15日号の「天の御国は近づいた」と題する記事は私の心をしっかりとらえ,必要な力づけを与えるものとなりました。その中に次のような1節がありました。

「一九一四年以来,栄光の王は王権をとられ,支配を開始されました。王は宮級の口びるを潔められ,みことのりを託してその人々を派遣しておられます。……主のための,忠実で真実の証人となりなさい。バビロンのなごりのすべてが荒れはてるまで戦いゆきなさい。広く,遠く音信を述べ伝えなさい。世界はエホバが神であり,イエス・キリストが王の王,主の主であることを知らねばなりません。今日は特別の時代です。ごらんなさい,王は君臨しておられます。あなたは王の宣伝代理者です。それゆえ,王と御国とを宣伝し,宣伝し,宣伝しなさい」。ほとんどぼろぼろになるまで数カ月の間,いつもこの雑誌を持ち歩きました。

招きに答える

1924年1月1日,22歳の私は全時間宣教奉仕を始め,自分の時間のすべてをささげて,他の人に聖書の真理を伝えられることを喜びました。こうして,エホバが示されためぐみを忘れていないことを示そうとしたのです。

ある浸礼式の時,ウイスバーデンとマインツから来た友人はその地方に会衆を組織するための助けを求めました。私はよろこんでこれを引き受け,やがてマインツとウイスバーデン地方の会衆の監督に指命されました。その地には1933年までとどまりましたが,御国の福音をたずさえて繰り返し区域をまわり,何度も聖書の講演をしました。

研究集会が各地に開設されました。今のウイスバーデン,マインツ,バッドクレウズナッハなどの会衆にはそのころ私たちが証言した人々も残っています ― 他の人々は死の眠りにつきました。当時私たちは自動車を持っていませんでした。乗り物と言えば自転車だけでしたが,一日に50キロから90キロ乗ることもありました。しかし,伝道に対する熱意を失うことはありませんでした。

このころには,ラインハウゼン,ヘッセンナサウ,タウナス,ハンスリュック,ナヘタル,またサアルブリュッケンの一部などでも伝道しました。過去をふりかえる時,エホバが必要のすべてを豊かに満たされた事をただ感謝せずにはいられません。生活の必要品に不足したことはありません。そして主がマタイ伝 19章29節で言われた通り,私があとに残した物のすべてはいつもゆたかに報われました。「おおよそ,わたしの名のために,家,兄弟,姉妹,父,母,子,もしくは畑を捨てた者は,その幾倍をも受け,また永遠の生命を受けつぐであろう」今日私は,神の組織の驚くべき成長を見ています。自分に割り当てられた区域のどこからも,新しい奉仕者が生まれ,その中のある者は全時間伝道奉仕をしています。この増加においてエホバが私に与えられた役割りに感謝せずにはおられません。

地下の伝道活動

1933年はヒトラー体制の始まった年であり,それと共に私たちの奉仕の方法も全面的に変わりました。1934年の夏,私たちは地下活動を余儀なくされ,伝道の仕事を秘密裏に行なうことになりました。むずかしい戦いになることは明らかでしたが,黙示録 2章11節の約束が私を力づけました。「勝利を得る者は,第二の死によって滅ぼされることはない」。

敵が深手を負わせた会衆に対しては,慰め,立ておこし,エホバが欠かさず備えられる霊的食物を与える仕事がありました。聖書の文書を配るために自分の命を危険にした兄弟も多くあります。むずかしい時にはいつでもエホバが私たちの避け所,私たちの力の源となられました。―詩 46:1。

聖書文書はスイス,オランダ,ザール地方などからひそかに運び込まれました。運ばれてきたものの中には「ものみの塔」だけでなく,「保護」「準備」などの書籍もありました。兄弟たちはこうした霊の食物に深く感謝し,その喜びを見る私たちは伴う危険と苦難のすべてを忘れました。何度か私は美しいスイスにとどまるようにとのさそいを受けました。しかし,ドイツの兄弟たちを離れることはできないと答えました。この兄弟たちはバールにひざをかがめたことのない人々でした。

ナチスの秘密警察は私を探しており,私に対する逮捕状を出していましたので,国境を越えることには危険がありました。他の一人と共にハモニカを吹きながら国境を歩いたことがあります。この時スイスの見張りが私たちを呼び止めました。道に迷った放浪者であると言うと,すぐに国境を通してくれました。私たちが接触した兄弟自身も監視下にあったので,どこに泊まるか分らぬ日もありました。汽車の中で寝たことも何度もありますが,検えつはそこにも来ました。幾度も,エホバが守っておられることを知りました。よりたのむことができたのはただエホバだけであり,エホバに対する私の信仰はいよいよ強くなりました。使徒パウロの言葉のとおりです。「わたしたちは,四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない」。―コリント後 4:8。

危険な経験

ある日ガールスルーエで同じく聖書研究生となっていた妹をたずねました。家に近づいた時,軍服を着た一人の男が家の前に立っているのに気付きました。私はその男を通り越し,庭を歩いて戸口に近づきました。その時,中から戸が開き,別の男が出て来ました。その男に声をかけ,自分がはいるから戸をおさえていてくれるようにと言いました。私を見た妹はほとんど気絶しそうになりました。事情はすぐに知れました。私はそのまま向きを変え,まだ庭に立っていた二人の男の前を通って鉄道の駅に向かいました。あとから聞いた妹の話では,二人の男はナチスの秘密警察ゲシュタポの士官であり,私を探しに来ていたのです。

長年宣教にたずさわる者として私の名前はよく知られていましたので,仲間の奉仕者が裁判を受ける時にはよく私の名が出されました。ゲシュタポはほとんどいつも私のあとを追っており,ただ網のひもをしめるところまで追われたことも何度かあります。しかし,エホバが保護の力を発揮されました。

ある時,聖書文書をつめた二つの箱を運んでいました。それは国境を越えて持って来たものであり,ボンとカッセルで配るものでした。晩おそくボンに着き,会衆の監督の家の地下室に箱を置きました。翌朝5時半に戸口のベルが鳴りました。来ていたのはゲシュタポでした。会衆の監督は部屋の戸を叩いて事の次第を私に告げました。外に出る時間の余裕はありません。じっと待って,成行きを見守りました。

部屋の戸口まで来たゲシュタポは,何をしに来ているのかと私に聞きました。ライン川を下ってボンの植物園を見に来たと答えました。私の書類は調べられ,疑いを込めた態度で返されました。会衆の監督は身じたくをしてゲシュタポと同行することを命ぜられました。監督の話によると,警察署でゲシュタポの上官はこうたずねました,「もう一人男がいたはずだ。その男はどこにいるのか」。

「彼は連れて来ませんでした。行って連れて来るべきですか」。

部下の愚かさに驚いた上官は言いました。

「連れて来る? おまえたちがまた来るのを待っているとでも思うのか」。

もとより私は待っていませんでした。聖書文書をたずさえ,カッセルに向かってすぐ出発していたのです。

別の時,聖書文書を詰めた二つの重い箱をウェツラル近くのブルグソルムに運びました。それは暗い夜の11時ごろでした。だれのすがたも見えず,声も聞こえませんでしたが,だれかにあとをつけられているような感じがしました。兄弟の家に着いてすぐ,箱を安全な場所にしまわせました。翌朝5時半に警官が来ました。私は部屋の真中に立ち,朝の身じたくを整えようとしていたところでした。

「きのうの晩,大きな箱を二つ持った男がここに来た。また本を受けとったに違いない。本はどこにあるのか」。

応待に出た婦人は答えました,「主人はもう働きに出ています。私は家にいませんでしたので,昨夜何があったか知りません」。

警官は納得しませんでした。「箱を出さないなら,私が家の中をさがさねばならない」。婦人がその場を動かないのを見た警官は言いました,「出さないのだな。市長を連れて来て,捜索の許可を得る」。

私は部屋の中央に立ち,二人の会話を聞いていました。警官がなぜ私に気付かないのか分かりませんでした。おそらく私の存在にはめくらにさせられていたのでしょう。警官が市長を連れに行っている間に,私は裏口から外に出ました。近隣の人々は私が急場をのがれた事を喜んだとのことですから,私の行動は見守られていたのでしょう。森の中で着物をととのえ,次の駅まで歩いて旅行を続けました。

逮捕と投獄

1937年の夏,機会を得てパリで開かれた聖書の大会に出席し,ものみの塔協会のJ・F・ラザフォード会長にドイツにおける伝道の様子を話しました。そのころ,ザクセン地方の兄弟の多くが逮捕されていました。それで,ドイツにもどった私はすぐに事情を知ろうとしました。しかし仕事を始めた翌日に,私は別の一人と共に逮捕され,ベルリンのゲシュタポ本部に連れてゆかれました。40日間の尋問を受けました。はじめの10日はぞっとするような経験になりました。ついでフランクフルトの特別法廷に移され,5年の投獄刑を宣告されました。

裁判の時,なぜアドルフ・ヒトラーに仕えないのかとの質問を受けました。「私の知るかぎりでは,アドルフ・ヒトラーは全面的な共同を求めています」と言うと,「そのとおりだ!」との返事がありました。「それでは判事,『カイザルのものはカイザルに,神のものは神に』とありますが,神にささげるどんなものが残っていることになりますか」。いかにも当惑したようなせきばらいが聞こえただけでした。この時には,エホバを代表する者にふさわしく率直に語る勇気を与えられたことをエホバに感謝しました。それまでに学んでいた聖書がどれほど力となったか知れません。

感謝すべきことに,その後独房に監禁された2年半の間,祈りを込めて聖書を読むことができました。刑務所職員から1冊の聖書を借りられたからです。全篇を通して2回読み,クリスチャン・ギリシャ語聖書はほとんど10回近く読みました。

しばらくして,他の15人と共に刑務所内の洋服工場で働くことになりました。そこには証言の機会がたくさんありました。ある時,「死人はどこにいるか」という題で私が話し,そののち同じく囚人となっていたカトリック牧師の考えを聞くことになりました。絶望したような牧師が最後に,「異教徒はみな死後の生命を信じている。なぜ我々もそれを信じないのか」と言った時,多くの者はただ目を見張るだけでした。「おや,異教徒も聖書を読むのですか」というのが聞いていた者の返事です。

刑期の満了が近づいたころ,いくつかの聖句を注意深く調べました。再びゲシュタポの前に出ることを予期したからです。これは予期した通りになり,3日の間聴問を受けましたが,「あなたの反対者のだれもが抗弁も否定もできないような言葉と知恵とを,わたしが授けるから」とのイエスの約束どおり,私は良い証言をし,反対する者の論議を打ち破ることができました。―ルカ 21:15。

その後,モーソーゼン強制収容所に入れられました。それは「私を地上から消し去る」ためであるとのことでした。しかしここでも,エホバの救いの手は長く,この時代に示されたエホバのめぐみを忘れることは決してないでしょう。私は道路建設工事にあてられましたが,かぶらと,ミルクを入れないコーヒーとの食事のために,3カ月で力がつきました。体重はわずかに75ポンド(約34キロ)になり,死ぬ日の近いことを知りました。しかしその時一つの指令が来ました,「1号棟の囚人21人は炊事場に出頭のこと」。私はその中にはいっていました。やがて体力を回復し始めた私は,あわれみある指図に対してエホバに感謝しました。8年後の1945年,収容所のとびらは開かれ,私たちは再び自由を得ました。

再組織の仕事

8月にウイスバーデンに着き,9月には再組織の仕事を始めていました。地下活動を余儀なくされていた間に,組織に関する指示が多く来ていましたので,私たちはまずマグデブルグで一種の補習課程を受けました。巡回のしもべと地域のしもべが会衆を定期的に訪問する取りきめが設けられました。受けた指示を適用することによって,ドイツにおける伝道活動は驚くほどの進歩を見ました。ここでもエホバが組織によってご自身の民を導いておられることを知り,過分に示されるエホバの御親切に感謝しました。

ヒトラーの強制収容所から解放されて以来すでに20年になります。この間,私は巡回のしもべ,また地域のしもべとして奉仕する特権を得ました。これはエホバから豊かに祝福された宣教の生活であり,そこには大きな喜びがありました。兄弟たちはよくこう言います,「聖書研究の手引きをあなたが初めて私に配布したのをおぼえておられますか」また「あなたが初めて私をたずねてくれました」。私たちは繰りかえし補習課程を受けました。そのうち,もっとも印象的であり,また教育的であったのは,1960年に出席した御国宣教学校です。やさしい教訓者の説明にどんなに感謝したことでしょう。それ以来私たちは,兄弟たちの益をはかって,学んだことを応用することに努めて来ました。

1950年にニューヨークで開かれた「神権拡大大会」への出席の招きを受けた事は特別の喜びであり,また驚きでした。大洋を越えての飛行,大都会ニューヨークの景観,ヤンキースタディアムでの大規模な大会,教訓に満ちた8日間,これらすべての印象は忘れることができません。一人の姉妹が講演をドイツ語に訳してくれ,私たちは母国の兄弟の益のためにと熱心にメモをとりました。ドイツにおいては大会に関連した仕事をしていましたので,この大会が円滑に組織されていることにとくに注意をひかれ,同時に多くのことを細かに観察しました。

2年後,1953年の夏にニューヨーク市で再びエホバの民の国際大会が開かれることを知り,私の心は喜びにあふれました。エホバの過分の恵みにより,再び出席できたのです。たしかにそこには,エホバに仕えるためにこの世から分けられた民がいました。その年の末,ニュールンベルグの大会で,熱心で勤勉な全時間奉仕者の一姉妹に会いました。1954年,私たちは結婚し,以来彼女は私と共に巡回奉仕をしています。ニューヨーク市で1958年に開かれた「神の御心」大会に出席できた事は二人にとって忘れられぬ経験となりました。ここでも数々の祝福を受け,目をさまして務めを守りエホバのめぐみを忘れまいとの思いを新たにしました。

ニューヨークで開かれたこれら三つの国際大会は私の生涯で最も幸福な経験となりました。若い時に全時間奉仕の機会をつかんでいなかったなら,こうした喜びを知ることはなかったでしょう。問題の多少にかかわりなく,エホバの大きな力が私たちを助けられることを何度も知りました。

これまでの経験から一つの事を学んでいます。すなわち,御国の事を第一として最善をつくし,自分の務を全うするなら,心の平和と満足を得られることです。時に色々な妨げのあることは確かです。しかし,うちかつなら,それらが私たちを霊的に強めるものとなるのです。

年がすすみ,健康と体力とが衰えても,これほど多くのめぐみを示されたエホバをいつまでも賛美できるように,自分の愛と忠実さとがいやますことは私の願いであり,また心からの祈りです。

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