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祭壇聖書に対する洞察,第1巻
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祭壇の意義 ヘブライ 8,9章の中で,使徒パウロは,幕屋と神殿での奉仕に関連したすべての事柄に予型的な意味のあったことをはっきり示しています。(ヘブ 8:5; 9:23)二つの祭壇の意義はクリスチャン・ギリシャ語聖書中にある情報によって明らかにされています。焼燔の捧げ物の祭壇は神の「ご意志」,つまりご自分の独り子の完全な人間の犠牲を喜んで受け入れる態度を表わしていました。(ヘブ 10:5-10)それが聖なる所への入口の前に位置していたことは,神に受け入れていただくための必要条件として,その贖いの犠牲に対する信仰が求められることを強調しています。(ヨハ 3:16-18)犠牲の祭壇を一つだけにとどめておくことが強調されましたが,それは,「わたしは道であり,真理であり,命です。わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません」というキリストの言葉とも,クリスチャンの信仰に一致が表わされていなければならないことを述べる多くの聖句とも調和しています。―ヨハ 14:6; マタ 7:13,14; コリ一 1:10-13; エフェ 4:3-6。また,あらゆる国の民が神の祭壇に来ると述べるイザヤの預言,イザ 56:7; 60:7に注目。
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バプテスマ聖書に対する洞察,第2巻
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ルカの述べるところによれば,イエスはバプテスマを施された時に祈っておられました。(ルカ 3:21)さらに,ヘブライ人への手紙の筆者によれば,イエス・キリストは「世に」来られた時(すなわち,生まれたばかりで,次のような言葉を読むことも言うこともできなかった時ではなく,バプテスマのためにご自分を差し出して,宣教を開始された時),詩編 40編6-8節(七十訳)と調和して,「犠牲や捧げ物をあなたは望まず,わたしのために体を備えてくださった。……ご覧ください,わたしは参りました(書の巻き物にわたしについて書いてあります),神よ,あなたのご意志を行なうために」と言われました。(ヘブ 10:5-9)イエスは生まれながらにユダヤ国民の一員でした。ユダヤ国民は,神との国家的な契約,つまり律法契約に入っていました。(出 19:5-8; ガラ 4:4)その事実のゆえにイエスは,そのようにしてバプテスマのためヨハネのもとに現われた時,すでにエホバ神との契約関係に入っておられました。イエスはその時,律法のもとでご自分に要求されていた以上のことを行なっておられました。イエスは,ご自分の『備えられた』体をささげることに関連した,また,律法にしたがってささげられた動物の犠牲を除き去ることに関係した,み父の「ご意志」を行なうために,み父エホバにご自身を差し出しておられました。使徒パウロは,「ここに述べた『ご意志』のもとに,わたしたちは,イエス・キリストの体がただ一度かぎりささげられたことによって,神聖なものとされている」と説明しています。(ヘブ 10:10)イエスに対するみ父のご意志には,王国に関連した活動も含まれており,イエスはこの奉仕のためにもご自身を差し出されました。(ルカ 4:43; 17:20,21)エホバは,み子が自分を差し出したことを受け入れて承認し,聖霊でみ子に油をそそぎ,「あなたはわたしの子,わたしの愛する者である。わたしはあなたを是認した」と言われました。―マル 1:9-11; ルカ 3:21-23; マタ 3:13-17。
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