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主の晩さん聖書に対する洞察,第1巻
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食事にあずかる各々の人について,使徒パウロは次のように書いています。「だれでも,ふさわしくない仕方でパンを食べたり主の杯を飲んだりする人は,主の体と血に関して罪を負うことになります。人はまず自分をよく吟味して確かめ,こうして後にパンから取って食べ,また杯から飲みなさい。食べまた飲む人は,もしその体をわきまえないなら,自分に対する裁きを食べまた飲むことになるのです」。(コリ一 11:27-29)汚れた,非聖書的な,もしくは偽善的な行ないをすれば,食べる資格はなくなります。そのような状態で食べるとすれば,その人は自分に対する裁きを食べまた飲むことになります。その人はキリストの犠牲とその目的,その意味を認識していないことになります。その犠牲に対して不敬と侮べつを示していることになるのです。(ヘブ 10:28-31と比較。)そのような人は,イスラエルにおいて汚れた状態で共与の食事にあずかった人がそうであったように,『神の民の中から断たれる』危険に身を置くことになります。―レビ 7:20。
事実,パウロは主の晩さんにあずかる人たちがキリストを共に分け持つことについてまず述べてから,主の晩さんをイスラエル人の共与の食事と比較して,次のように述べています。「肉的な面でのイスラエルを見てください。犠牲のものを食べる人は,祭壇と分け合う者となるのではありませんか。……あなた方はエホバの杯と悪霊の杯を共に飲むことはできません。『エホバの食卓』と悪霊の食卓に同時にあずかることはできないのです」― コリ一 10:18-21。
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捧げ物聖書に対する洞察,第1巻
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主の晩さん(記念式,または最後の夕食)は共与の食事です。(コリ一 10:16)「[イエス]の血による新しい契約」に入っている人々がイエスの体と血を表わす表象物にあずかって,信仰のうちに互いに分け合う関係を持ちます。彼らはこの取り決めの創始者であるエホバとも分け合います。これらの人々はエホバの是認を求めており,互いと平和な関係にあるだけでなく,イエス・キリストを通してエホバとも平和な関係にあります。共与の食事にあずかる者に対する清さの要求に調和して,パウロはクリスチャンに,記念式の食事の前には自分を吟味すべきことを警告しています。その行事を,またぶどう酒やパン種を入れないパンといった表象物を軽々しく扱ったり,侮べつをもって扱ったりすることは神聖な物事を汚すことであり,不利な裁きに価します。―コリ一 11:25,27-29。「主の晩さん」を参照。
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