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劇場聖書に対する洞察,第1巻
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ギリシャ語のテアトロンは,催し物の行なわれる場所と,「劇場の見せ物」そのもののどちらをも表わします。パウロはこう書きました。「というのは,神はわたしたち使徒を,死に定められた者として,出し物の最後に置かれたように思えるのです。なぜなら,わたしたちは,世に対し,み使いたちに対し,また人々に対して,劇場の見せ物[テアトロン]のようになっているからです」。(コリ一 4:9)こうして,パウロは暗に,円形劇場の闘技場で行なわれたローマの剣闘競技における恒例の最後の種目に触れました。その際,参加する幾人かの人は裸で無防備のまま連れ出され,屠殺されるかのように確実な死に渡されました。
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世,世界聖書に対する洞察,第2巻
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『世に対する,すなわちみ使いと人間双方に対する見せ物』 コリント第一 4章9節のコスモスという言葉の用法には,目に見えない霊の被造物と目に見える人間という被造物の両方が含まれると解釈し,「わたしたちは世に対して,み使いにも人々にも見せ物にされています」と訳している人たちもいます。(ア標)しかし,脚注ではそれに代わる読み方を示して,「または,み使いたちに対し,また人々に対して」と述べています。聖書の他の訳本も,ギリシャ語本文のこの部分をこの後者の訳し方で訳出しています。(欽定,ラムサ,モファット,ウル訳,信心会,マードック)ヤングの翻訳は,「わたしたちは世と使者たちと人々に対して見せ物となった」と読んでいます。筆者はこの節より前のコリント第一 1章20,21,27,28節,2章12節,3章19,22節でコスモスを人類の世という意味で用いているのですから,すぐ後のコリント第一 4章9,13節でその意味から離れることはないと思われます。ですから,「み使いにも人々にも」という訳し方が許されるとすれば,その表現はコスモスという言葉の意味を拡張するためではなく,むしろ観衆の範囲を広げるための単なる意味の強化であって,観衆の範囲が人間の世を超えて,「人間」だけでなく「み使いたち」をも含むようにされているに過ぎません。―ロザハムと比較。
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