ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 義
    聖書に対する洞察,第1巻
    • アリマタヤのヨセフは「善良で義にかなった」人として知られていましたが,もちろんこれらの語は不完全な人間を指して用いられている場合,常に相対的な意味で使われています。(ルカ 23:50。マタ 19:16,17; マル 10:17,18と比較。「善良」[エホバの善良さ]を参照。)イスラエルに対する神の律法の中のおきては,「[神に由来するゆえに]聖にして[公正の点で完全であるゆえに]義にかない,[これを守り行なう人たちにとってあらゆる点で有益であるゆえに]良い」ものでした。―ロマ 7:12。エフェ 5:9と比較。

  • 義
    聖書に対する洞察,第1巻
    • 律法は義にかなっていた とはいえ,モーセを通して与えられた律法には神の義の規準が含まれていなかったということではありません。確かに含まれていました。使徒は,「それゆえに,律法そのものは聖なるものであって,おきては聖にして義にかない,良いものです」と論じています。(ロマ 7:12; 申 4:8)律法は来たるべき良い事柄の影を備えると共に,違犯を明らかにし,心の正直なユダヤ人をキリストに導く養育係にもなるという点で神の目的にかなうものでした。(ガラ 3:19,24; ヘブ 10:1)しかし,律法のもとにあった人々に真の,全き義をもたらすことはできませんでした。彼らはみな罪人で,律法を完全に守ることはできませんでしたし,大祭司も犠牲や奉仕によって彼らの罪を除くことはできませんでした。ですから,義に達する道は,神の備えであるみ子を受け入れること以外になかったのです。(ロマ 8:3,4; ヘブ 7:18-28)キリストを受け入れた人たちは義と宣せられましたが,その義は獲得したものとしてではなく,賜物として与えられたものだったので,彼らにとってキリストは,「神からの知恵,また義と聖化,そして贖いによる釈放」となられたのです。したがって,真の義はキリストを通してのみもたらされます。そのようにして,エホバが高められ,人間や自らの業ではなく,この方にすべての義の源であられる方としての誉れが帰せられるのです。それは,「『誇る者はエホバにあって誇れ』と書かれているとおりになるためです」。―コリ一 1:30,31; ロマ 5:17。

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする