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イエス・キリスト聖書に対する洞察,第1巻
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地上でのイエスの誕生 イエスが地上で生まれる前から,み使いたちは人間の姿を取ってこの惑星上に現われたことがありました。それぞれの機会にふさわしい肉体を備えて現われ,それぞれの割り当てを完全に果たしたあとは,肉体を解いて見えなくなったようです。(創 19:1-3; 裁 6:20-22; 13:15-20)したがって,それらみ使いたちは一時的に肉体をまとったにすぎず,霊の被造物であることに変わりはありませんでした。しかし,地上に来て人間イエスとなられた神のみ子の場合はそうではありませんでした。ヨハネ 1章14節によれば,「言葉は肉体となってわたしたちの間に宿り」ました。それゆえに,イエスはご自分のことを「人の子」と呼ぶことがおできになったのです。(ヨハ 1:51; 3:14,15)中には,『わたしたちの間に宿った[字義,「天幕を張った」]』という表現に注目し,これはイエスが本当の人間ではなく,化身であったことを示していると主張する人たちもいます。しかし,使徒ペテロは自分自身に関して同様の表現を使っていますが,ペテロが化身でなかったことは明らかです。―ペテ二 1:13,14。
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イエス・キリスト聖書に対する洞察,第1巻
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「真理について証しする」 「それでは,あなたは王なのだな」というピラトの質問に,イエスはこうお答えになりました。「あなた自身が,わたしが王であると言っています。真理について証しすること,このためにわたしは生まれ,このためにわたしは世に来ました。真理の側にいる者はみなわたしの声を聴きます」。(ヨハ 18:37。「訴訟,訴え」[イエスの裁判]を参照。)聖書が示しているように,イエスが証しされた真理は,単なる一般的な真理ではありませんでした。それは,かつて神の目的であった事柄や現在神の目的となっている事柄に関する最も重要な真理,つまり神の至高の意志とその意志を成し遂げる神の能力に関する基本的な事実に基づく真理でした。イエスは,「神聖な奥義」に含まれているその真理とは,「ダビデの子」であるイエス・キリストが王座に就いて王なる祭司として仕える,神の王国であることをご自分の宣教の業によって明らかにされました。それはまた,ダビデの都市である,ユダヤのベツレヘムでイエスが生まれる前,およびお生まれになった時にみ使いたちがふれ告げた音信の核心でもありました。―ルカ 1:32,33; 2:10-14; 3:31。
真理について証しする点でご自分の宣教を成し遂げるために,イエスには単に話したり,宣べ伝えたり,教えたりする以上のことが求められました。イエスは人間として生まれるためにご自分の天的な栄光を捨てるだけでなく,律法契約に包含されていた影,すなわち型を含め,ご自分について預言されていた事柄すべてを成就しなければなりませんでした。(コロ 2:16,17; ヘブ 10:1)イエスはみ父の預言的な言葉や約束に関する真理を擁護するために,その真理を実現させるような仕方で生き,ご自分の言動や生き方や死に方によって真理を成就しなければなりませんでした。ですから,イエスはご自分が真理であること,要するに真理を体現した方であることが必要でしたし,イエスご自身,自分がそのような者であると言われました。―ヨハ 14:6。
このようなわけで,使徒ヨハネは,イエスが「過分の親切と真理とに満ちていた」と書くことができ,また『律法はモーセを通して与えられたが,過分の親切と真理とはイエス・キリストを通して存するようになった』と書くことができました。(ヨハ 1:14,17)イエスが人間として誕生し,水のバプテスマを受けることによりご自身を神に差し出し,神の王国のために3年半のあいだ公の奉仕を行ない,神に対する忠実を保って死に,天に復活させられたことにより ― これらの歴史的な出来事すべてによって ― 神の真理は到来し,つまり『存するようになりました』。つまり,実現したのです。(ヨハ 1:18; コロ 2:17と比較。)ですから,イエス・キリストの全生涯は,「真理について証しする」,すなわち神が誓っておられた事柄について証しするものでした。したがって,イエスは決して影としてのメシアもしくはキリストなどではありませんでした。イエスは約束された本当のメシアもしくはキリストでした。決して影としての王なる祭司などではありませんでした。イエスは実質的に,また実際に,予示されていた真の王なる祭司だったのです。―ロマ 15:8-12。詩 18:49; 117:1; 申 32:43; イザ 11:10と比較。
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親切聖書に対する洞察,第1巻
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一方,カリスが出て来る箇所の大半で,大抵の英訳聖書の翻訳者はカリスに英語の“grace”(恩寵)という訳語を当てています。しかし,14ほどの異なる意味を持つ英語の“grace”(第1義,優雅)という言葉では,ギリシャ語に含まれている種々の考えはほとんどの読者に伝わりません。一例として,ジェームズ王欽定訳のヨハネ 1章14節は,「言葉は肉体とされ……恩寵[英語,grace]と真理とにて満てり」となっていますが,その意味は何でしょうか。それは「優雅さ」,あるいは「恵み」を意味していますか。それとも何を意味しているのでしょうか。
学者のR・C・トレンチは「新約聖書の同義語」と題する本の中で,カリスには「返礼を求めたり期待したりせずに無償で施される恵み[という意味が含まれて]いる。したがって,この言葉は人間に対する神の愛ある親切の完全かつ絶対的な無償性を説明するために……[キリスト教の著作に見られるように]新たな仕方で強調されるようになる素地を備えていた。例えば,アリストテレスは[カリス]を定義して,まさしくこの点を専ら強調している。すなわち,その恵みはお返しを期待せずに無償で施されるものであり,その唯一の動機は与える側の惜しみなく与える気持ちや気前のよさなのである」と述べています。(ロンドン,1961年,158ページ)ジョセフ・H・セアは自分の編さんした辞典の中で次のように述べています。「この言葉[カリス]には,受けるに値しなかったものを人に授ける親切という考えが含まれている。……新約の筆者たちは,神が不相応な者たちにさえ恵みを施し,罪人たちの違反を赦し,キリストによるとこしえの救いを受け入れるよう懇願する際に示されるあの親切に関連して[カリス]を際立った仕方で用いている」。(「新約聖書希英辞典」,1889年,666ページ)カリスはギリシャ語のカリスマという別の言葉と密接に関連しており,その言葉に関してウィリアム・バークレーの「新約聖書用語集」(1956年,29ページ)は次のように述べています。「無償の過分の賜物,労することもなく功績もない人に与えられたものというのがこの言葉[カリスマ]の基本的な考えである」。―コリ二 1:11,行間と比較。
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独り子聖書に対する洞察,第2巻
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使徒ヨハネは主イエス・キリストのことを繰り返し神の独り子と述べています。(ヨハ 1:14; 3:16,18; ヨハ一 4:9)これはイエスの人としての誕生,あるいは純然たる人間としてのイエスについて述べているのではありません。ロゴスつまり言葉として,「この方は初めに神と共にい(ました)」し,「世がある前に」も存在していました。(ヨハ 1:1,2; 17:5,24)その当時,つまり人間となる以前の状態でいた時に関して,イエスは「独り子」と言われており,そのイエスをみ父は「世に」遣わされました。―ヨハ一 4:9。
イエスは「父の独り子が持つような栄光」を持ち,「父に対してその懐の位置」にいる者と言われています。(ヨハ 1:14,18)父と息子の関係で,これほど親密で打ち解けた,あるいはこれほど愛と優しさにあふれた関係はほかに考えられません。―「懐の位置」を参照。
アダムが「神の子」だったように,天のみ使いたちも神の子でした。(創 6:2; ヨブ 1:6; 38:7; ルカ 3:38)しかし,後にイエスと呼ばれたロゴスは「神の独り子」です。(ヨハ 3:18)イエスはその種のものでは唯一の方,つまりいかなる被造物の代行も協力もなしに神ご自身によって創造された唯一の方です。また,み父であられる神が他のすべての被造物を生み出した際にお用いになった唯一の方でもあります。イエスは,すべてのみ使いの中にあって初子また主要な方であり(コロ 1:15,16; ヘブ 1:5,6),聖書はそのみ使いたちのことを「神のような者たち」または「神々」と呼んでいます。(詩 8:4,5)そのため,最も古く最も良質の写本の幾つかによれば,主イエス・キリストは適切にも「独り子の神[ギ語,モノゲネース テオス; 英文字義,ただ一人もうけられた神]」と呼ばれています。―ヨハ 1:18,新世,ロザハム,スペンサー。
三位一体論の「子なる神」という概念を支持する幾つかの翻訳は,この句,モノゲネース テオスの語順を逆にして,「神なる独り子」と訳出しています。しかし,W・J・ヒッキは新約聖書希英辞典(1956年,123ページ)の中で,それらの翻訳者がどうしてモノゲネース ヒュイオスを「ただ一人もうけられた子,あるいは独り子」と訳出しながらモノゲネース テオスを「ただ一人もうけられた神」ではなく「神なる独り子」と訳すのか理解に苦しむと述べています。
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神の子(たち)聖書に対する洞察,第1巻
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神のみ子であるキリスト・イエス ヨハネによる福音書の記述は特に,イエスが人間となる前に「言葉」として存在しておられたことを強調し,「言葉は肉体となってわたしたちの間に宿り,わたしたちはその栄光,父の独り子が持つような栄光を目にしたのである」と説明しています。(ヨハ 1:1-3,14)イエスが人間として誕生して初めて子としての身分をお持ちになったのでないことは,「わたしは,自分の父のもとで見た事柄を話します」と言われた時のようなイエスご自身の言葉や(ヨハ 8:38,42。ヨハ 17:5,24と比較),霊感を受けた使徒たちの述べた他の明確な言葉から分かります。―ロマ 8:3; ガラ 4:4; ヨハ一 4:9-11,14。
「独り」(英文字義,ただ一人もうけられた) 中には,ギリシャ語のモノゲネースという言葉を「ただ一人もうけられた」という意味の英語で訳出することに異議を唱える注解者もいます。そのような注解者は,このギリシャ語の後半の部分(ゲネース)はゲンナオー(もうける)ではなく,ゲノス(種類)に由来しているので,このギリシャ語は『ある部類,または種類の中の唯一のもの』という意味のことを指す語であると指摘します。ですから,多くの翻訳では,イエスは「独り子」(英文字義,ただ一人もうけられた子; ヨハ 1:14; 3:16,18; ヨハ一 4:9)ではなく,「ただ一人の子」と訳されています。(改標; 聖ア; エルサレム)それにしても,この語の個々の構成要素には生まれるという動詞の意味が含まれてはいないものの,この語の用法には確かに,血統,もしくは出生という考えが含まれています。というのは,ギリシャ語のゲノスという言葉は,「家柄,親類,子孫,種族」を意味しているからです。この語はペテロ第一 2章9節で「種族」と訳されています。ヒエロニムスの訳したラテン語ウルガタ訳では,モノゲネースが「ただ一人もうけられた」,または「ただ一人の」という意味のウーニゲニトゥスと訳されています。この語がこのように出生,もしくは血統と関係を持っていることを認める辞書編集者は少なくありません。
エドワード・ロビンソン編,新約聖書希英辞典(1885年,471ページ)は,モノゲネースを「ただ一人生まれた,ただ一人もうけられた,すなわち,ただ一人の子供」と定義しています。W・ヒッキ編,新約聖書希英辞典(1956年,123ページ)もこの語を「ただ一人もうけられた」と定義しています。G・キッテルの編さんした,新約聖書神学辞典はこう述べています。「μονο-[モノ-]は派生形の起源ではなく,性質を示している。ゆえに,μονογενής[モノゲネース]は『唯一の血統の』,すなわち兄弟も姉妹もいないという意味である。これは,ただ一人もうけられたという意味を示している。これは二親の,それもおもに二親との関係における,ただ一人の子供を指すのである。……しかし,この言葉はまた,由来とは関係なく,『特異な』,『比類のない』,『無比の』などの,より一般的な意味で使うこともできるが,部類もしくは種類を指す場合と特徴を指す場合とを混同すべきではない」― 翻訳者および編集者,G・ブロミリ,1969年,第4巻,738ページ。
この後のほうの辞典(739-741ページ)は,クリスチャン・ギリシャ語聖書,もしくは“新約聖書”におけるこの語の用法について次のように述べています。「それは『ただ一人もうけられた』という意味である。……[ヨハネ]3章16,18節,ヨハ一 4章9節,[ヨハネ]1章18節では,イエスの関係は単に,ただ一人の子供とその父との関係になぞらえられているのではない。それはただ一人もうけられた子とみ父との関係そのものなのである。……ヨハ 1章14,18節,3章16,18節,ヨハ一 4章9節では,μονογενήςはイエスの特異性,もしくは無類性以上のことを表わしている。これらすべての節で,イエスははっきりと子と呼ばれており,1章14節ではそのような方とみなされている。ヨハネによる書では,μονογενήςはイエスの起源を表わしている。イエスはただ一人もうけられた方としてのμονογενήςなのである」。
これらの言葉や聖書そのものの明白な証拠からすれば,イエスが神の特異な,もしくは無類のみ子であるだけでなく,「ただ一人もうけられた子」でもあり,したがって神により生み出されたという意味で神から出た方であることを示す翻訳に異議を差し挟むべき理由は一つもありません。この点は,使徒たちがこのみ子を「全創造物の初子」,ならびに「神から生まれた方[ゲンナオーの変化形]」と呼んでおり(コロ 1:15; ヨハ一 5:18),またイエスご自身,ご自分のことを「神による創造の初めである者」と述べておられることにより確証されています。―啓 3:14。
イエスは人間として存在する以前,「言葉」と呼ばれた(ヨハ 1:1),神の最初の創造物としての神の「初子」です。(コロ 1:15)ヨハネ 1章1節の「初め」という言葉は,創造者なる神の存在の「初め」を指すと考えることはできません。というのは,神は永遠に存在する,始めのない方だからです。(詩 90:2)ですから,それは,その言葉が神の長子として神により生み出された,創造の始めを指しているに違いありません。「初め」という語は,ある期間や生涯,あるいは歩みの始まりを表わすのに他の幾つかの句でも同様に使われています。その例は,ヨハネから第一の手紙を書き送られた人たちのクリスチャンとしての生涯の「初め」(ヨハ一 2:7; 3:11),サタンの反逆の歩みの「初め」(ヨハ一 3:8),ユダが義の道からそれだした「初め」(ヨハ 6:64。「ユダ,II」4項[堕落する]を参照)などです。イエスは「独り子」,字義通りには「ただ一人もうけられた子」です。(ヨハ 3:16)というのは,イエスは,霊者と人間のいずれを問わず,神の子たちの中で,神がただおひとりで創造された,唯一の方だからです。他の者は皆,その長子を通して,もしくはその長子「によって」創造されたのです。―コロ 1:16,17。「イエス・キリスト」(人間になる以前の存在); 「独り子」を参照。
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真理,真実聖書に対する洞察,第1巻
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イエス・キリストはみ父エホバと同様,「過分の親切と真理とに満ちて」おられます。(ヨハ 1:14; エフェ 4:21)イエスは地上におられた間,常に,み父から与えられたとおりの真理を語りました。(ヨハ 8:40,45,46)「彼は罪を犯さず,またその口に欺きは見いだされませんでした」。(ペテ一 2:22)イエスは物事の真の姿を示されました。イエスは『真理に満ちて』おられただけでなく,ご自身が「真理」であられ,真理はイエスを通して到来しました。イエスは,「わたしは道であり,真理であり,命です」と言明されました。(ヨハ 14:6)また使徒ヨハネも,「律法はモーセを通して与えられ,過分の親切と真理とはイエス・キリストを通して存するようになった」と書きました。―ヨハ 1:17。
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言葉聖書に対する洞察,第1巻
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地上での宣教と天でお受けになった栄光 やがて変化が生じました。ヨハネはこう説明しています。「こうして,言葉は肉体となってわたしたちの間に[主イエス・キリストとして]宿り,わたしたちはその栄光,父の独り子が持つような栄光を目にしたのである」。(ヨハ 1:14)この言葉は肉体となることにより,地上の目撃証人にとって目に見える方,またその話を聞くことができ,触れることのできる方となられました。こうして,肉なるものである人間が「命の言葉」と直接接触したり交わったりすることができるようになったのです。ヨハネはこの方について,「初めからあったもの,わたしたちが聞いたもの,自分の目で見たもの,注意して眺め,自分の手で触れたもの」と述べています。―ヨハ一 1:1-3。
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