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負債,負い目,債務者聖書に対する洞察,第2巻
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イエスの例え 西暦1世紀当時,債権者と債務者の関係はユダヤ人にとって大変なじみ深いものだったので,イエスは時々その点をご自分の例えの中で引き合いに出されました。イエスは,6,000万デナリ(約4,000万㌦)の負債を免除されたにもかかわらず,100デナリ(約70㌦)の負債のために仲間の奴隷を獄に投げ込んだ邪悪な奴隷について話すことにより,許すことの必要性を強調されました。(マタ 18:23-33)二人の債務者の例えでは,一人は500デナリ(約350㌦)の負債を許され,もう一人は50デナリ(約35㌦)の負債を許されました。その例えが際立たせていたのは,「わずかしか許されていない者は,わずかしか愛さない」という原則です。(ルカ 7:41-47)神を友とするために「不義の」(物質上の)富を賢明に用いるという点は,不義な家令が自分の地位を失いそうになった時,抜け目なく自分の権威を用いて主人の債務者たちの負債を減らすことにより,彼らを友にしたという例えによって示されています。―ルカ 16:1-9。
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許し聖書に対する洞察,第2巻
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エホバは「豊かに」お許しになる方です。その点は,イエスの話された放とう息子の例えや奴隷を許した王の例えからも分かります。その王は奴隷に貸していた1万タラント(6,000万デナリ,つまり約4,000万㌦)の負債を帳消しにしました。ところがその奴隷は,仲間の奴隷に貸していたわずか100デナリ(約70㌦)の負債を帳消しにすることを渋りました。(イザ 55:7; ルカ 15:11-32; マタ 18:23-35)とはいえ,エホバは感傷に流されて許しを与えられるわけではありません。由々しい行為を処罰しないままにはしておかれないからです。(詩 99:8)ヨシュアは,イスラエルが背教すればエホバはそれをお許しにならないことを彼らに警告しました。―ヨシュ 24:19,20。イザ 2:6-9と比較。
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例え聖書に対する洞察,第2巻
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(9)憐れみに欠けた奴隷(マタ 18:23-35)。 イエスがこの例えを用いるきっかけとなった状況はマタイ 18章21,22節に,その適用の仕方は35節に記されています。この例えが強調しているのは,わたしたちが神に負っているものに比べれば,仲間の人間がわたしたちに負っているものは取るに足りないということです。この例えは,神がキリストの犠牲を通してわたしたち罪深い人間の多大の負い目を許してくださるので,仲間の人間がわたしたちに対して犯す,それと比べるとささいな罪は許さなければならないことをわたしたちに銘記させています。
1デナリは1日の賃金に相当したので,少ないほうの負債である100デナリは1年の賃金の約3分の1に相当しました。多いほうの負債である銀1万タラントは6,000万デナリ,つまり,人生を幾千回も繰り返さなければ貯まらないほどの賃金に相当しました。王に対して支払われるべき負債が巨額のものであったことは,当時のユダヤ,イドマヤ,サマリアの諸領地および特定の諸都市が支払った税金の合計が年に600タラントであったというヨセフスの記述に示されています。ガリラヤとペレアは200タラントを支払っていました。イエスご自身(35節で)このたとえ話に表わされている原則を次のように述べておられます。「もしあなた方各自が,自分の兄弟を心から許さないなら,わたしの天の父もあなた方をこれと同じように扱われるでしょう」。
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