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預言聖書に対する洞察,第2巻
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次のような実例は原語の意味をよく示しています。エゼキエルは幻の中で,「風に向かって預言せよ」と命じられた時,風に対する神の命令を述べたにすぎませんでした。(エゼ 37:9,10)ある人々が裁判を受けていたイエスに物をかぶせて平手で打ち,それから,「キリストよ,わたしたちに預言せよ。お前を打ったのはだれか」と言った時,彼らは予言ではなく,イエスを平手で打った者たちがだれかを神の啓示によって明らかにするようイエスに求めていました。(マタ 26:67,68; ルカ 22:63,64)サマリア人の女は井戸の傍らでイエスが「預言者」であることを認めましたが,それは,イエスが神の力によらなければ知り得ない,彼女の過去に関する事柄を明らかにされたからでした。(ヨハ 4:17-19。ルカ 7:39と比較。)それに,聖書の中で,イエスの山上の垂訓や,書士やパリサイ人に対するイエスの糾弾の言葉などが記されている箇所(マタ 23:1-36)も当然,預言として定義づけられるでしょう。それは,イザヤやエレミヤその他のより古い時代の預言者による宣告がそうであった通り,物事に関する神の思いを霊感を受けて『告げ知らせる』ことだったからです。―イザ 65:13-16およびルカ 6:20-25と比較。
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霊聖書に対する洞察,第2巻
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例えば,エゼキエル 37章1-10節には,乾いた骨の谷に関する象徴的な幻のことが述べられており,骨が集まり,筋と肉と皮膚で覆われましたが,『息[ウェルーアハ]は,それらの中に全くありません』でした。エゼキエルは「風[ハールーアハ]」に向かって預言するようにと言われ,「風よ,四方の風[ルーアハの変化形]から入って来て,これら殺された者たちに吹きつけ,彼らが生き返るようにせよ」と言いました。四方の風に言及しているこの言葉は,この例では風がルーアハの適切な訳語であることを示しています。しかし,単に動いている空気である,そのような「風」がその幻の中の死者の鼻孔に入ると,それは,これまた動いている空気である「息」になりました。したがって,その記述のこの時点(10節)では,ルーアハを「息」と訳出するほうが,それを「霊」または「生命力」と訳出するよりもやはり適切です。また,エゼキエルはそれらの体に精力を与える生命力,もしくは霊を見ることはできなかったでしょうが,それらの体が呼吸をするようになるのを見ることができたでしょう。11-14節が示すように,この幻は,バビロンでの流刑のため,しばらくのあいだ霊的に死んだ状態に陥っていたイスラエルの民を,霊的に(物理的にではなく)蘇生させることを象徴的に表わしていました。彼らはすでに物理的に生き返って呼吸をしていたので,14節のルーアハを「霊」と訳出するのは理にかなったことです。この箇所で,神は『ご自分の霊』をその民のうちに置くので,彼らは霊的な意味で生きるようになると言っておられます。
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