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エシュルン聖書に対する洞察,第1巻
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エシュルン
(Jeshurun)[廉直な者]
イスラエルに付された名誉称号。ギリシャ語セプトゥアギンタ訳の中で,「エシュルン」は愛情を表わす語となり,「愛された」と訳されています。「エシュルン」という名称は,エホバの契約の民として召されていること,またそれゆえに廉直さを保つ責務があることをイスラエルに思い起こさせたはずです。(申 33:5,26; イザ 44:2)申命記 32章15節では,このエシュルンという名が反語的に用いられています。イスラエルはエシュルンという名にふさわしく行動せず,強情になり,自らの造り主を捨て,救い主をさげすみました。
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神の子(たち)聖書に対する洞察,第1巻
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「イスラエルはわたしの子」 自分は神で,エジプト人の神ラーの子であると考えていたファラオに対して,エホバはイスラエルのことを「わたしの子,わたしの初子」と呼び,「わたしの子を去らせて,わたしに仕えさせよ」と,そのエジプト人の支配者に要求なさいました。(出 4:22,23)ですから,イスラエル国民は神の選ばれた民,つまり『すべての民の中から特別な所有物』とされた民族だったので,神はこの国民全体をご自分の「子」とみなされました。(申 14:1,2)エホバはすべての命の源であられるという意味だけでなく,とりわけアブラハム契約にしたがってこの民を産み出されたという意味で,その民を「創造された方」,「形造られた方」,ならびにその「父」と呼ばれており,彼らはこの方の名によって呼ばれました。(詩 95:6,7; 100:3; イザ 43:1-7,15; 45:11,12,18,19; 63:16と比較。)神はかつて彼らを「腹の時から助け」ましたが,これは彼らが一民族として発展し始めた当初のことを指しているものと思われます。神はこの民を取り扱う仕方や律法契約によって彼らを『形造り』,国家的な特徴や機構を作り上げました。(イザ 44:1,2,21。エゼ 16:1-14にあるエルサレムに対して使われた神の表現と比較。また,ガラ 4:19およびテサ一 2:11,12にあるパウロの表現と比較。)父が自分の子のためにするように,エホバは彼らを保護し,担い,矯正し,また養われました。(申 1:30,31; 8:5-9。イザ 49:14,15と比較。)この国民は「子」でしたから,そのみ父の賛美に資する者となるべきでした。(イザ 43:21; マラ 1:6)さもなければ,イスラエルは子としての身分を有名無実なものとして示すことになったでしょう。(申 32:4-6,18-20; イザ 1:2,3; 30:1,2,9)それは,イスラエル人の中のある人々が不面目なことを行なって,『ベリアルの子ら』(申 13:13その他の句で,「どうしようもない者たち」と訳されているヘブライ語を字義通りに訳した表現。コリ二 6:15と比較)と呼ばれたとおりです。それらの人々は「背信の子ら」となりました。―エレ 3:14,22。エレ 4:22と比較。
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