-
イエス・キリスト聖書に対する洞察,第1巻
-
-
弟子たちがイエスのうちにみ父を「見た」ということも,聖書の他の例に照らして考えると,理解できます。例えば,ヤコブはエサウにこう言いました。「わたしはあなたの顔を,さながら神の顔を見るようにして見ているのです……あなたが喜びをもってわたしを受け入れてくださったからです」。ヤコブがそう言ったのは,エサウの反応が,神にささげた自分の祈りと調和したものだったからです。(創 33:9-11; 32:9-12)ヨブは風あらしの中から神による尋問を受けて物事をはっきり理解した後,「私はあなたのことをうわさで聞いていましたが,今は,私のこの目があなたを確かに見ております」と述べました。(ヨブ 38:1; 42:5。裁 13:21,22も参照。)『その心の目』は啓発されていました。(エフェ 1:18と比較。)み父を見ることに関して語られたイエスの言葉は,文字通りの意味ではなく,比喩的な意味に取らなければなりません。このことは,ヨハネ 6章45節のイエスご自身の語られた言葉だけでなく,イエスの死後かなりたってからヨハネが,「いまだ神を見た人はいない。父に対してその懐の位置にいる独り子の神こそ,彼について説明したのである」と書いたことからも明らかです。―ヨハ 1:18; ヨハ一 4:12。
-
-
臨在,共にいること,存在すること聖書に対する洞察,第2巻
-
-
中には,イエスが「大いなる力と栄光を伴い,雲のうちにあって来る」のが見えるという聖句を根拠に(マル 13:26; 啓 1:7),イエスの臨在は目に見えるに違いないと結論する人々がいます。しかし,「雲」(例えとしての用法)の項のもとで示されているように,神の他の顕現に関連した雲という語の用法が示唆しているのは,可視性ではなく,むしろ不可視性です。それにまた,「見る」ということも,比喩的な視覚,つまり思いと心による知覚を指す場合があります。(イザ 44:18; エレ 5:21; エゼ 12:2,3; マタ 13:13-16; エフェ 1:17,18)このことを否定するなら,見えることの反対,すなわち盲目という語が,文字通りの意味ではなく,比喩的もしくは霊的な意味でも使われるということを否定する結果になります。しかしイエスは明らかに,見えることと盲目の両方をそのような比喩的もしくは霊的な意味で使われました。(ヨハ 9:39-41; 啓 3:14-18。また,コリ二 4:4; ペテ二 1:9と比較。)ヨブは,「風あらし[雲を伴っていたと思われる]の中から」エホバに話しかけられた後に,「私はあなたのことをうわさで聞いていましたが,今は,私のこの目があなたを確かに見ております」と言いました。(ヨブ 38:1; 42:5)これもまた,「いまだ神を見た人はいない」という聖書の明快な教えからすると,文字通りの目ではなく,むしろ思いと心の知覚によるものであったに違いありません。―ヨハ 1:18; 5:37; 6:46; ヨハ一 4:12。
-