-
考古学聖書に対する洞察,第1巻
-
-
東からエズレルの谷に近づく道を守っていた古代の要塞都市ベト・シャン(ベト・シェアン)の遺跡は,これまでに何度か重要な発掘調査が行なわれ,18の異なった居住層が明らかにされました。もっとも,そのためには21㍍の深さまで掘り下げなければなりませんでした。(第1巻,959ページの図)聖書の記述の示すところによれば,ベト・シャンは侵入したイスラエル人が最初から占有した町々の一つではなく,サウルの時代にはフィリスティア人に占有されていました。(ヨシュ 17:11; 裁 1:27; サム一 31:8-12)その発掘調査は全体としてその記録を裏づけており,契約の箱がフィリスティア人に奪われた後しばらくたってからベト・シャンが滅びたことを示唆しています。(サム一 4:1-11)特に興味深いのは,ベト・シャンでカナン人の幾つかの神殿が発見されたことです。サムエル第一 31章10節は,フィリスティア人がサウル王の武具を「アシュトレテの像の家に置き,その遺体はベト・シャンの城壁にくくり付けた」と述べている一方,歴代第一 10章10節は,「彼らはその武具を彼らの神の家に置き,その頭蓋骨はダゴンの家にくくり付けた」と述べています。発掘された神殿のうちの二つは同じ時期のもので,一方はアシュトレテの神殿であった形跡を示しており,他方はダゴンの神殿だったと考えられています。これは,ベト・シャンに二つの神殿があったことを示す上記の聖句と調和しています。
-
-
ベト・シェアン,ベト・シャン聖書に対する洞察,第2巻
-
-
ベト・シェアンは,サウル王が統治していた時にはフィリスティア人のものとなっており,隣接するギルボア山でサウルが敗北した後,フィリスティア人の勝利者たちはサウルの武具を「アシュトレテの像の家」に,また彼の首をダゴンの家に置き,サウルとその息子たちの遺体をベト・シャン(ベト・シェアン)の城壁につるしました。それは市の公共の広場に面した,城壁の内側だったと思われます。そこから20㌔ほど離れたヨルダン川対岸のヤベシュ・ギレアデに住む勇敢で恐れを知らないイスラエル人たちは,それらの遺体を取り戻しました。恐らく,そうするために夜中に市内に突入したのでしょう。―サム一 31:8-13; サム二 21:12; 代一 10:8-12。
上の記述と一致して,テル・エル・フスンでの発掘により,二つの神殿の廃墟が掘り出されました。その一つはアシュトレテの神殿とみなされており,もう少し南にある他の一つはダゴンの神殿ではないかと言う人もいます。そのアシュトレテの神殿は,西暦前10世紀ごろまで用いられていたと推定されています。証拠は,ある石碑の中で「ベト・シャンの主人[バアル]なるメカル」と呼ばれているバアル神がそれ以前に崇拝されていたことを示しています。
-