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  • モアブのキル
    聖書に対する洞察,第2巻
    • 西暦前10世紀の終わりごろ,イスラエル,ユダ,エドムの連合軍はキル・ハレセトを攻撃しました。この場所をカラクと同定するのが正しければ,石を投げる者たちが同市に石を投げつけたのは恐らくその近くの山々からだったのでしょう。キル・ハレセトは攻略されなかったようですが,戦況はモアブの王にとって不利になりました。同王は述べられていない何らかの理由で,700人の戦士と共に戦列を突破してエドムの王のところに近づこうとしましたが,これは成功しませんでした。最後の手段として,モアブの王は自分の長子を人々の前で犠牲としてささげたようですが,その目的はケモシュの神を和めることにあったのかもしれません。(王二 3:5,9,25-27)ヘブライ語本文(王二 3:27)はエドムの王の長子に言及しているようにも取れます。中にはアモス 2章1節にそれが暗示されていると言う人もいます。しかしその可能性はあまりありません。

  • メシャ
    聖書に対する洞察,第2巻
    • わなに掛かったことを知ったメシャは,剣士700人を引き連れ,エドムの王のところに突入しようとしましたが(そこが抵抗の最も小さい所だと考えたからかもしれません),そうすることができませんでした。「ついに彼は,自分に代わって治めることになっていた長子を取り,その子を城壁の上で焼燔の犠牲としてささげ」ました。―王二 3:26,27。

      メシャが自分の息子をケモシュ神に犠牲としてささげたという点で注解者の見方は大方一致しています。別の意見を持つ少数の注解者は,犠牲にされたのは,捕らえられたエドムの王の息子であったとし,根拠としてアモス 2章1節を引き合いに出します。そこでは,モアブが「石灰のためにエドムの王の骨を焼いた」と述べられています。その部分のヘブライ語をそのように解釈することは文法的には可能ですが,後者の考えは他の周知の事実と相いれないように思えます。例えば,イスラエルの隣に住んでいたモアブ人とアンモン人が敵を自分たちの神に犠牲としてささげたことは知られていませんが,神の怒りを和らげるために自分たちの子供を焼燔の犠牲としてささげる宗教的慣行を持っていたことは知られています。(申 12:30,31; ミカ 6:6,7)したがって,ケモシュの崇拝者であるメシャが,敗北の差し迫った危険に直面してなぜあえてそのような手段を取ったかは理解できます。

  • モアブ,モアブ人
    聖書に対する洞察,第2巻
    • 預言の中のモアブ イスラエルに敵対したその長い歴史と調和して,モアブはエホバの民の強情な敵の中に名を挙げられています。(イザ 11:14と比較。)イスラエルをそしったこと,およびその誇りとごう慢さのゆえに,モアブはついにはソドムのように荒れ果てた所となるよう定められました。(ゼパ 2:8-11。エレ 48:29も参照。)既に西暦前9世紀の終わりごろ,アモスはモアブが「石灰のためにエドムの王の骨を焼いた」ゆえに災いを被るであろうと書きました。(アモ 2:1-3)このことから,列王第二 3章26,27節でメシャがささげたと述べられているのは彼自身の子ではなく,エドムの王の長子ということになる,と理解する人たちもいますが,それはありそうにない推測です。それでも,ユダヤ人の伝承の一つは確かにアモスの述べたこの出来事をメシャに対して行なわれた戦争と結び付けており,その戦闘の少し後にモアブ人はエドムの王の骨を掘り出し,それからそれを焼いて石灰にしたと唱えています。しかし,聖書の記録には関係している時期を確定するだけの根拠が見当たりません。

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