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    聖書に対する洞察,第1巻
    • モアブ碑石はヨルダン川の東の地区での最初期の重要な発見物の一つです。(第1巻,325ページの写真)1868年にアルノン渓谷の北,ディバンで見つかったその碑石には,モアブ人の王メシャの側の,イスラエルに対する反乱に関する説明が記されています。(王二 1:1; 3:4,5と比較。)その碑文は一部次のように述べています。「わたしはケモシュ・[……]の子,ディボン人,モアブの王メシャ(である)。……イスラエルの王オムリであるが,彼は多年(字義,日々)にわたりモアブを卑しめた。ケモシュ[モアブの神]が彼の地に対して怒りを覚えたからである。そして彼の子がその跡を継いだ。彼もまた言った,『わたしはモアブを卑しめよう』と。わたしの時代に彼は(そのように)言ったのであるが,わたしは彼とその家に対して勝利を収め,イスラエルのほうは永久に滅びうせたのである!……そしてケモシュはわたしに言った,『行け,イスラエルからネボを取れ!』 そこでわたしは夜のうちに行き,夜の明ける時から昼までこれと戦い,そこを取り,そのすべてを打ち殺した。……そしてわたしはそこからヤハウェの[器]を取り,それらをケモシュの前に引いて来た」。(「古代近東テキスト」,J・B・プリッチャード編,1974年,320ページ)このように,その碑石にはイスラエルの王オムリの名前が挙げられているだけでなく,18行目には神のみ名が四文字語<テトラグラマトン>の形で含まれているのです。

  • ディボン
    聖書に対する洞察,第2巻
    • イスラエル人がこの地域を最初に征服したすぐ後に,ガドの部族がここに住んで,『ディボンを建てて[または,再建して]ゆきました』。そして,その名前を長くしてディボン・ガドと名づけたようです。このディボン・ガドという場所は同国民の宿営地の一つに挙げられています。(民 32:34,36; 33:45,46)しかし,ディボンはルベンの相続地の一部とみなされました。(民 32:2,3; ヨシュ 13:8,9,15-17)ディボンはエグロン王の治世中に盛り返したモアブ人の勢力によって苦しめられたようですが,裁き人エフドが勝利を得た結果,救われました。(裁 3:12-30)列王第二 3章4,5節にある聖書の記述によると,数世紀後,モアブの王メシャは「アハブが死ぬとすぐ」イスラエル人の支配に反逆しました。聖書はこの反乱がどれほど続いたのかを詳しく述べていません。また,メシャがモアブ碑石の中で自慢しているように,その時にイスラエル人の幾つかの都市を“カルハー”に首尾よく併合してしまった可能性もあります。ところが聖書の記録は,メシャの宣伝臭の強い碑文とは異なり,モアブの軍隊がイスラエル,ユダ,エドムの連合軍と戦闘を開始した時,モアブが完全に撃ち破られたことを明らかにしています。―王二 3:4-27。

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