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姿勢と身ぶり聖書に対する洞察,第1巻
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手を置くことにはほかの意味もありました。その一つは,出エジプト記 29章10,15節の場合のように,何かを認めることでした。その箇所でアロンとその子らは,犠牲が自分たちのためにささげられたものであることを認めています。レビ記 4章15節においても同様の意味があります。
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手聖書に対する洞察,第2巻
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手を置くこと 単に何かを扱う以外にも,人や物の上に手を置くことが様々な目的で行なわれました。しかし,その行為には全般的に,指定する,つまり人もしくは物が一定の仕方で認められた,もしくは承認されたことを明らかにするという意味がありました。祭司職の任職の儀式が行なわれた際,アロンとその子らは犠牲となる雄牛と2頭の雄羊の頭の上に手を置き,そうすることによってそれらの動物が,自分たちのために,つまり自分たちがエホバ神の祭司となるために犠牲にされることを認めました。(出 29:10,15,19; レビ 8:14,18,22)モーセは神の命令によりヨシュアを自分の後継者として任命した際,手をヨシュアの上に置きました。その結果,ヨシュアは「知恵の霊に満ち」,イスラエルを正しく導くことができました。(申 34:9)祝福を受ける者として人を指定する際,その人の上に手が置かれました。(創 48:14; マル 10:16)イエス・キリストはご自分がいやしたある人たちに手で触ったり,その上に手を置いたりされました。(マタ 8:3; マル 6:5; ルカ 13:13)幾つかの例では,使徒たちの手が置かれることによって聖霊の賜物が与えられました。―使徒 8:14-20; 19:6。
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