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聖書聖書に対する洞察,第1巻
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神のこの見えない聖霊は,象徴的な意味で神の「指」です。ですから,モーセが超自然的な目覚ましい業を行なうのを見た人々は,「これこそ神の指です!」と叫びました。(出 8:18,19。マタ 12:22,28; ルカ 11:20のイエスの言葉と比較。)これと同様の神の力の表明として,石の書き板に「神の指」によって十戒が刻まれることにより聖書の執筆が開始されました。(出 31:18; 申 9:10)したがって,エホバにとっては,ある人々が学問的訓練の点で「無学な普通の」人であっても(使徒 4:13),また当人の職業が羊飼い,農夫,天幕作り,漁師,収税人,医師,祭司,預言者,あるいは王であっても,それにはかかわりなく,人間をご自分の書記として用いるのは容易なことだったでしょう。エホバの活動する力は幾つかの考えを筆者の頭に入れ,ある場合には神の考えを筆者自身の言葉で表現させて,筆者の人格や個性が著作に表われることを許しましたが,それでも同時に,全体を通じて主題や目的の点で絶妙な一致が保たれるようにしました。そのようなわけで,出来上がった聖書は,実際,エホバの思いや意志を反映しているので,聖書の内容の豊かさや視野の広さは,単なる人間の著作のそれを凌駕するものとなりました。全能の神は,その書き記された真理の言葉が言語の点で容易に理解されるもの,またほとんどどんな言葉にでも容易に翻訳されるものとなるよう取り計らわれました。
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指聖書に対する洞察,第2巻
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比喩的な意味で,神はご自分の「指」で業を成し遂げられると言われています。その例としては,石の書き板に十戒を書き記すこと(出 31:18; 申 9:10),奇跡を行なうこと(出 8:18,19),天の創造(詩 8:3)があります。創造の活動の際に用いられた神の「指」が神の聖霊,すなわち活動する力を指しているということは,創世記の創造の記録から分かります。そこでは,神の活動する力(ルーアハ,「霊」)が水の表を動いていたと述べられています。(創 1:2)とはいえ,クリスチャン・ギリシャ語聖書はこの象徴的な用法を確実に理解するかぎとなっています。マタイの記述ではイエスが『神の聖霊』によって悪霊たちを追い出したと説明されており,ルカの記述ではそれが「神の指」によって行なわれたと述べられています。―マタ 12:28; ルカ 11:20。
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