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あなたがバプテスマを受けることを何が妨げていますかものみの塔 1974 | 8月1日
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活動力を用いて,さらにはご自分の目に見える組織およびその一部である土地の会衆や会衆内の長老たちの一団を通してわたしたちを強め導いてくださいます。―ゼカリヤ 4:6。マタイ 24:45-47。
これらの助けを得ることにより,生来の肉の業があるにもかかわらず,また悪魔や悪霊たちの悪だくみや,この邪悪な事物の体制によってもたらされるさまざまな誘惑にもかかわらずに,神のご意志を行なうというその献身に一致した生活を送ることができます。―エフェソス 6:11-18。
以上のことをお読みになって,バプテスマを受ける特権にお気づきになったなら,あなたが交わっておられる会衆の主宰監督にそのことをお話しになってください。ある聖書研究生は,“神の勝利”大会でバプテスマを受けましたが,1951年に王国の音信を初めて聞き,1973年まで22年間バプテスマを受けるのを控えていました。そういうふうであってはなりません。忘れないでください。今や時はほんとうに尽きようとしているのです! どんな事がらにも,バプテスマを受けるのを妨げられてはなりません!―マタイ 24:34。
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あなたは会衆内の責任を担う資格がありますかものみの塔 1974 | 8月1日
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あなたは会衆内の責任を担う資格がありますか
責任ということについて,あなたはどのように感じますか。今日の世界の多くの人は,それを避けたり,それから逃げたりします。それがいろいろな務めや義務を伴うからです。一方,野心的な態度で責任を求める人もいます。それによって目だつ地位を得,他の人を支配したり,自分に特別の便益を与えたりする力や権威を得たいと思うためです。
クリスチャンの会衆の中に,こうした態度はどちらも入る余地がありません。(マタイ 20:25-27。ペテロ第一 5:2,3)しかし,すすんで責任を引き受ける人の必要は存在しています。それに答え応じる人は,責任ということに対して世の多くの人とは大きく異なった態度をいだいていなければなりません。そうした人たちは責任の地位を「とらえようと努めている」べきですが,それは,他の者 ― 主として神,ついで自分の隣人たち,とりわけ会衆内の人々 ― に仕えたいという願いに動かされてのことであるべきです。そして,神に誉れを帰し,自分の名ではなく,神のみ名が高められ,敬われることを求めているのであれば,それは正しいことです。―テモテ第一 3:1。ガラテア 6:10。箴 8:13。
第一世紀の初期クリスチャン会衆には,「長老」(ギリシャ語,プレスビュテロス),または「奉仕のしもべ」(ディアコノス)として責任の地位に任命された人たちがいました。(テトス 1:5。フィリピ 1:1)長老には,神の羊の群れの『牧者』として仕え,会衆を霊的な面で監督する務めがありました。(使徒 20:28)奉仕のしもべは彼らを補佐し,霊的な面で監督することとそれほど直接の関係を持たないながらなお「必要な仕事」を取り扱いました。―使徒 6:1-6。
長老と奉仕のしもべのいずれの立場で奉仕するにしても,これらの人は神のみ子のようになるべきです。み子はこれまで人間が担ったどんな責任よりはるかに重い責任を受け入れていましたが,それでも「仕えられるためではなく,むしろ仕えるため」に来られたのです。(マルコ 10:45)長老や奉仕のしもべの持つべき正しい態度は,どこかの場所を探している人に出会ったときに,『その場所の行き方をお教えしましょう』と申し出る人の態度になぞらえることができます。またそれは,重い荷を運んでいる人を見た場合に,『わたしに手つだわせてください』と言う人のようでもあります。あなたはそうした精神をいだいていますか。
満たすべき霊的な資格
しかし,求められているのは,人の益のために仕えたいという願いだけではありません。神のことばは,長老もしくは奉仕のしもべとして仕える人の満たすべき一定の資格をもはっきり述べています。それらの点を今考え,それを考えつつ,自分がそうした会衆内の責任を担う資格があるかどうかを自問してみてください。そして,そうした資格を,その述べられた背景を念頭において,つまり,第一世紀のクリスチャンを対照として当初記録されたものであることを銘記しつつ検討してください。それによって,今日の実業界で広く見られるものを含め,この世の標準でそうした資格について考える傾向を避けることができます。
幾つかの基本的な要求は長老と奉仕のしもべの双方に等しく当てはまります。その中には次の点があります。
とがめのない人。長老や奉仕のしもべは,「とがめられるところのない」,つまり,真の意味での非行のとがめを受けない人であるべきです。(テモテ第一 3:2,8,10。テトス 1:6,7)もちろんこれは,この人たちの側に全くの完全さを要求するものではありません。もしそうだとすれば,罪人アダムの子孫である人間はだれもこの資格を満たすことができないでしょう。(ヤコブ 3:2。ヨハネ第一 1:8)とはいえ,この立場に就く人は,重い責めを負う人であってはなりません。しかし,なんらかの責めがある場合,それが,ゆがんでいることの多いこの世の規準ではなく,正邪に関する聖書の規準に照らして考慮されるべきことは当然です。(テモテ第一 6:14。コロサイ 1:22)過去に重大な性質の悪行を何か犯していることがあるなら,その人は以後の生活によってその非難をすすぎ,りっぱな行状によって自分の名誉を取り戻しているべきです。そうであれば,その人が任命されても,神や世から見て会衆が非難を受けることはありません。
ひとりの妻の夫である。結婚している人であれば,生存しているただひとりの妻の夫であり,第一世紀の,クリスチャンでない多くの人のような一夫多妻者であってはなりません。―テモテ第一 3:2,12。テトス 1:6。
酔って騒ぐ人ではない。長老や奉仕のしもべとなる人は,アルコール飲料に過度にふけり,思考や感情の面で自制力を失う人であってはなりません。事実,奉仕のしもべに対する要求の中に示されるとおり,それは,『大酒にふける』人でさえなく,したがって,「大酒者」(エルサレム聖書)といった評判のない人です。―テモテ第一 3:3,8。テトス 1:7。ペテロ第一 4:3。
金を愛する人でない; 不正な利得に貪欲でない。聖書の中で貪欲な人は淫行者・偶像礼拝者・大酒飲みなどと同類に扱われていますから,物質主義的な人が会衆内の責任を担う資格に欠けるのは言うまでもありません。(コリント第一 5:11。テモテ第一 6:9,10。ヘブライ 13:5)この資格にかなう人は「不正な利得」をすべて避けます。(テモテ第一 3:3,8。テトス 1:7。ペテロ第一 5:2)ここの「不正」ということばは,腐敗した世界の特色である詐欺やごまかし,またいわゆる“抜けめのない”手段だけをさすのではありません。ここで「不正」と訳されている元のギリシャ語には,基本的に言って,「不面ぼくな」という意味があり,そのゆえに,「恥ずべき」(改訂標準訳),「卑しい」(アメリカ訳),「さもしい」(新アメリカ標準訳)などとも訳されます。同様に,「利得」に当たるギリシャ語も,商取引き上の金銭また物質上の利得や『もうけ』をさす場合もありますが(ヤコブ 4:13),それだけに限られているわけでは決してありません。それは,いかなるものにせよ,いっさいのもうけ,利得,利益をさしています。(フィリピ 1:21; 3:4-8と比較)したがって,神の会衆内での責任の地位を利用し,自分に対して他の人以上に物質上の便益を図ったり,力や目だった地位またそれに伴う威信によって他の人以上の利益を得るなら,それも『恥ずべき利得』になります。その人は,天におられる群れの所有者で,私心なく謙遜に仕えるように自分を割り当てたかたに対して正直に行動していません。―ペテロ第一 5:2,3; 使徒 20:33-35; ルカ 16:14と比較。
自分の家の者をりっぱに治め,子どもを従わせている。奉仕のしもべも長老もただの少年であってはならず,子どもを持つ年齢に達した人であるべきです。結婚しているなら,その人は,良い夫また良い父親として敬われ,聖書の原則にしたがって家を治めている人であるべきです。(テモテ第一 3:4,5,12。テトス 1:6)これは,神の原則に対する家族の反応という面で家族員すべての全面的な成功を見ていなければならない,という意味ですか。
言うまでもなく,長老や奉仕のしもべになる人はそうした目標で努力します。しかし,その人のりっぱな努力にもかかわらず,そのような良い結果の得られない場合もあります。人間の能力で判断しえない事情もときにあります。妻がクリスチャンの信仰を受け入れず,夫の信仰に対して反対や迫害をもたらす場合さえあります。(マタイ 10:36。ルカ 12:52)あるいは,子どものひとりが誤ってなんらかの不道徳な行為を犯し,さらには,『一並びの中の腐ったりんご』のようになることさえあります。しかし,この点でわたしたちは,神の霊の子の中にも反逆した者がおり,また,神の子であった最初の二人の人間も同じ道を取ったことを銘記すべきです。それでも,それらの者の行動は,どの点から見ても,神の側の落ち度や怠慢に帰せられるものではありませんでした。
したがって,クリスチャンの夫もしくは父親の治める家族の一員がなんらかの悪行に関与している場合,問われるべき大切な点は次のことです。すなわち,その人はそのことに対してどの程度の責任を負っているでしょうか。その人は自分の務めを怠っていましたか。もしそうであれば,その人は会衆や外部の人々からの尊敬を受けられないでしょう。一方,その人が普通に期待されるすべての事がらを行ない,現に他の家族員に関してりっぱに成功しているのであれば,家族の一員がそのりっぱな指導に答え応じていないとしても,それによってその人が自動的に失格するわけではありません。
新しく転向した人ではない。長老と奉仕のしもべのいずれの立場に就く人も,それに「ふさわしいかどうかまず試」されていなければならず,当人は信頼性と献身の深さとを実証していなければなりません。(テモテ第一 3:6,10)これには時間がかかります。そして,「長老」ということばそのものにも暗示されるとおり,長老となるためには,奉仕のしもべの場合以上に時間的な要素の求められるのが普通です。しかしながら,個人的な違いがあり,霊的な進歩の度合に違いがあります。そのようなわけで一定の時間的な条件は設けられていませんが,このような立場にだれかを推せんする人は,十分な判断力を働かせ,新しい人を早計に押し出してしまうことのないようにしなければなりません。その人が,悪魔のように『誇りのために思い上がる』ことのないためです。その人は,まずキリストの「精神態度」,つまり謙遜さを身に着けるべきです。―フィリピ 2:3-8。
特に奉仕のしもべに対する要求として挙げられているものがほかにも幾つかあります。しかし,ほとんど当然のことですが,それらは,長老の立場に就く人も満たすべきものです。そうした要求の中には次の点があります。
まじめである。テモテ第一 3章8節の他の翻訳は,『謹厳である』,『威厳を示す』,『尊敬すべき』,『高潔な』などの表現を用いており,それらも使徒がここで用いたギリシャ語の訳語として妥当なものです。したがって,ときおりのユーモアは不似合いなものではありませんが,こうした立場に就く人はだれも,‘道化師’のように常におどけた人ではありません。またその人は自分の責任を軽く見る傾向の人でもありません。
二枚舌でない。したがって,率直で真実な人,『そのことばを信頼できる』人,偽善的でなく,
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