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自分の宣教において進歩する王国宣教 1971 | 10月
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自分の宣教において進歩する
1 エホバのために働くのは喜びです。そして,もしわたしたちが進歩しつづけるならば,その喜びは大きくなってゆきます。使徒パウロはテモテを励まして,こう述べました。「これらのことを熟考し,これらのことに専念してください。あなたの進歩がすべての人々に明らかになるためです」。(テモテ前 4:15,新)わたしたちも進歩できます。そして,パウロがテモテに助言したとおりのことをわたしたちが行なうなら,すなわち,神のみことばにしるされている事柄を熟考し,その述べる事柄を適用することに専念するならば,わたしたちは進歩するでしょう。
2 どの会衆でもなすべきわざはたくさんありますし,進んで働く人が求められています。あなたはご自分を役だてておられますか。そうするのはりっぱなことです。それは物事を動かして自分自身を会衆内で目だたせるよう努力するという意味ではありません。それは,自分たちの兄弟姉妹のためにわざわざ何かをして励ましたり,野外奉仕でいっしょに働いたり,霊的に建て起こしたりするという意味です。また,王国会館でなすべき余分のわざがある場合,できれば助力を申し出ることを意味します。それには,集会に関連して自分に与えられる割り当てを果たすことも含まれます。そして,聴衆を喜ばせたり,あるいはおもしろがらせたりするためではなく,霊的な仕方で会衆を建て起こすためにそうするのです。そうした事柄をしたいという欲求やそれをりっぱに行なう能力は,聖書を勤勉に研究し,かつ学んだ事柄を自分自身の生活に適用することから生じます。あなたはそうした進歩を遂げておられますか。
3 開拓者のわざは多くの人に差し伸べられているもう1つのすばらしい特権です。あなたは開拓者ですか。開拓奉仕はあなたがそれを目ざして努力する目標ですか。それは自分の時間を満たすに足るわざがほかに何もない時だけにするような仕事ではありません。それは自分の時間をたいせつにし,時間を有効に用いるために自己訓練をする人たちのためのわざです。良い開拓者であるということは,野外での一定量の奉仕を単に報告するというだけの事柄ではありません。良い開拓者であるための条件は,りっぱな会衆の伝道者であるためのそれと同じです。ただ,開拓奉仕をしている人は実際の野外奉仕にさらに多くの時間を費やせる立場にあるという点が違うだけです。両者とも,宣教に対する純粋の愛と区域内の人々に対する深い関心をつちかうべきです。両者とも,エホバとそのすばらしい目的を知るよう誠実な人々を助けるために,あらゆる機会を活用せずにはおられないような欲求を感ずるべきです。また,自分たちの野外宣教を改善する方法に絶えず気を配っているべきです。また道徳的に清い生活を送ること,および自分たちの行なう事柄すべてにおいて霊の実を表わすことの重要性を痛切に自覚しているべきです。こうした点であなたは進歩しておられますか。
4 必要のいっそう大きなところで奉仕せよとの召しに答え応ずることもまた,進歩のほどを示す証拠といえます。みんながそうした場所に出かけてゆけるわけではありません。が,それでも多くの人々がそうしました。彼らは物質面の関心事のためにエホバへの奉仕で行ないうる事柄に課されていた制約の一部を振り切ることができました。そして,しもべたちの助けを必要としたり,あるいは良いたよりを携えて区域を網羅する点で助力を求めたりしていた会衆の区域に移りました。中には自分たちの能力を活用して,そうした地方で王国会館を建設する面で援助できた人々もいます。その結果もたらされた祝福は彼らの心に多大の喜びを与えるものとなりました。
5 確かにわたしたちはすべて前進できます。ある人々は ― 開拓者,宣教者またベテルの家族の成員として ― 新たな奉仕の分野に移ってゆくことができます。そして,もしそれらの人々がそうする資格を持っているのであれば,そうするよう彼らを励ますべきです。しかし,わたしたちはそうしたわざに携われるかどうかに関係なく,自分の時間のより有効な用い方を学べます。野外宣教において,また会衆内でわたしたちに開かれる種々の機会をより十分に活用できます。また,神のみことばをいっそう勤勉に研究し,かつそれを自分自身の生活にいっそう十分に適用すべく努力できるのです。もしわたしたちがこうした事柄を熟考し,それに専念するならば,進歩するのはまれなできごとではなく,それはわたしたちの生活にいつも見られるものとなるでしょう。
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わたしたちは教え手であるとともに友だちになっていますか王国宣教 1971 | 10月
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わたしたちは教え手であるとともに友だちになっていますか
1 「悪い交わりは有益な習慣をそこないます」。この基本的な真理が言い表わされるのをわたしたちは何度聞いたかしれません。それにしても聖書は確かに,その反対の作用,つまり,『良い交わりは良い習慣をつちかう』という考えをも支持しています。―コリント前 15:33。箴言 13:20。
2 この原則はわたしたちの聖書研究生にもあてはまります。それら研究生が今持っている友だちの中には,正直で誠実な人ではあっても,真理に関するかぎり良い交際相手とは言えない人々もいます。どうすれば,そうした人々のかわりに別の友だちを得させることができますか。わたしたちはそれら研究生の教え手以上の者でなければなりません。それら研究生が真のクリスチャンの間に友だちを得るよう助けなければならないのです。わたしたちは自分自身がそれら研究生の友だちになってあげなければなりません。
3 まず第一に,良い友だちを見つけるよう研究生を助けうる1つの場所は,ほかならぬ会衆の中にあります。このことに関してある夫婦はこう述べました。「私たちは研究生を家に招いてもてなし,彼らは私たちの家で神権的な交際や交友を持ちます。私たちは努めて彼らが同年輩の他の兄弟姉妹や家族と接して,新しいりっぱな友だちを作れるようにします。……そして,関心のある新しい人々をさっそく集会に連れてくるよう努力します。また,大会にもいっしょに連れてゆきます」。長年の間に何百人もの人々を真理を知るように導いた別の夫婦は,どのようにして成功したかについてこう述べました。「親密な友だちになること……教え手と研究生といった単なる機械的な関係を持つことではありません。……研究生を私たちの家に招待します。概して,寛大で親切で,またもてなしをすることは相手に同様の態度を誘うようです。そして,たいてい愛ある親しい家族のようなりっぱな関係が築かれます。やがて今度は研究生のほうが友だちを自分の家に招いて,もてなすようになり,ほどなくして神権的な交わりだけしか持たなくなり,そのために急速に円熟します」。
4 わたしたちの聖書研究生との間により親密な友情のきずなを築くのに役だつ機会は数多くあります。たとえば,電話で親しく話しかけることもできます。いっしょに博物館を尋ねて,聖書の記録の正しさを立証する考古学上の物件を見学するのもよいでしょう。また,いなかを旅行したり,公園を訪れたりすれば,創造の驚異を認識するのに役だつでしょう。
5 そうした行楽にさいし,研究生をクリスチャンの友として信仰の側に首尾よく導き入れる1つのかぎともいうべき事柄があります。それは,どのような場合でも,聖書の真理とクリスチャンの生き方との価値を示す点に留意することです。クリスチャンとしてのわたしたちのふるまいは,正しい心の状態をもつそうした人々を絶えず引きつけるものとなるでしょう。それらの人と晩のひととき楽しく語り合い,経験をわかち合ったり,真理について話し合ったりすることもできます。しかしながら,彼らがクリスチャンの福祉を危くするような社交的な活動を計画したいと考るような場合には,わたしたちは目ざとくそうした活動を避けて,かかわりを持たないようにしなければなりません。
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