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歴代志略はなぜ書きしるされたかものみの塔 1972 | 9月15日
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ことは祝福を受ける結果になるが,真の崇拝を捨てることは災を招くということを確証しています。これは,ユダヤ人たちが,先祖に不幸をもたらした道を避けるうえで大きな励ましとなりました。
わたしたちも今日,エホバに忠実であることを励ますこれらの歴史上の範例から益を受けられます。また,真の崇拝を忠節に支持して,歴代志略の目的を見落していないことを示すことができます。
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読者からの質問ものみの塔 1972 | 9月15日
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読者からの質問
● 夫婦がうまく折り合ってゆけない場合,妻が夫を去るのは正しいことでしょうか。ものみの塔聖書冊子協会の初代の会長C・T・ラッセルの妻はなぜ夫を去ったのですか。―アメリカの一読者より
聖書は,夫婦が単にうまく折り合ってゆけないとの理由で離婚あるいは別居することを勧めてはいません。使徒パウロは霊感を受けてこう書きました。「われ婚姻したる者に命ず(命ずる者は我にあらず主なり)妻は夫と別るべからず。もし別るる事あらば,嫁がずして居るか,又は夫と和げ。夫もまた妻を去るべからず」― コリント前 7:10,11。
ですから,結婚関係においてむずかしい問題が生じた場合,クリスチャンの婦人は別居を求めるよりも,夫とのいっそう愛のある,より良い関係を築くべく最善の努力を尽くすべきです。結婚は神が人類のために定めた取り決め,また賜物であることを認識し,結婚生活の問題を解決して,結婚の賜物の与え主であるエホバ神に賛美と誉れを帰したいと願うべきでしょう。したがって,妻と別れたいと夫に考えさせるような理由を決して夫に与えないよう注意しなければなりません。なぜなら,不信者の夫が自分の妻は真のキリスト教に帰依したがゆえにいっそう愛のある親切な,思いやりと理解のある妻になったということを悟れるようでなければならないからです。これは使徒ペテロの述べた助言にかなうことです。「妻たる者よ,汝らもその夫に服へ。たとえ御言に遵はぬ夫ありとも,汝らの潔く,かつ恭敬しき行状を見て,言によらず妻の行状によりて救に入らん為なり」― ペテロ前 3:1,2。
しかしながら時には,クリスチャンの妻のりっぱな行状にもかかわらず,不信者の夫が妻と別れると言って聞かない場合があります。そのような場合,信者の妻は夫が去るのを何とかして阻もうとすべきですか。あるいは,クリスチャンの夫は,不信者の妻が去るのを防げるべきですか。そうすべきではありません。聖書はこう述べます。「不信者みづから離れ去らば,その離るるに任せよ。斯のごとき事あらば,兄弟または姉妹,もはや繋がるる所なし。神の汝らを召し給へるは平和を得させん為なり」― コリント前 7:15。
時には,自らクリスチャンをもって任ずる妻が,信者である夫を去る場合が生ずるかもしれません。夫は妻と別れたことを深く悔み,当然のこととして和解を望むかもしれません。しかし,もし夫のかしらの権の問題あるいは他の聖書の原則に関する不一致の問題で妻が去った場合はどうですか。
その場合,クリスチャンの夫は,家族のかしらとしての自分の立場に関しては妥協できないこと,あるいは聖書に反する何らかの譲歩をして和解を図るわけにはゆかないことを認めます。クリスチャンの夫は,神の栄光を表わすようにとの神からの命令のもとにあります。そのような夫がかしらの地位を放棄するのは,クリスチャン会衆のかしら,イエス・キリストを恥ずかしめ,エホバ神の名誉を汚すことになります。―コリント前書 11:3-7と比べてください。
C・T・ラッセルは,その妻にかかわる問題の取り扱い方からも明らかなとおり,夫としての自分の聖書的な立場を正しく認識していました。彼は英国にいる一友人にあてた1899年12月27日付の手紙の中で,妻が離れていった理由とそのことに関する自分の気持ちを次のように述べています。
「われわれの愛するラッセル姉妹は,他の人々 ― とりわけ,『暴露された陰謀』と題するパンフレットに指摘された人々を襲ったのと同じ病にかかりました。彼らの厄介な問題は,大敵である悪魔が最初にいだいたのと同じもの,つまり野心およびそれを満たすために物事をくつがえしたいとする欲望でした。
「わたしたちふたりは結婚して20年余りになりますが,そのうちの13年間ラッセル姉妹はこのうえなく愛のある気高い真実の協力者でした。そして,陰謀が企てられた当時でも依然同様の態度を取っており,S・D・ロジャーズの跡を追って幾つかの州を巡って旅行し,彼の中傷的な言説を正すことをさえ進んで行なうほどでした。しかし,すでに働きはじめていた野心的な精神は,われわれの愛する姉妹が前述の機会にさいして非常に暖かく受け入れられたため,かなりあおられて炎と化しました。彼女は,単に自分自身のゆえにではなく,主のわざのため
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