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  • 死後に生命がありますか
    ものみの塔 1970 | 1月1日
    • 人を神は喜ばれますか。あなたはむしろ,神のみことばをほんとうに尊重する人々との交わりを楽しまれる方がよいのではありませんか。それはあなたご自身の命を左右する問題です。

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1970 | 1月1日
    • 読者からの質問

      ● ヨハネ伝 20章25節のトマスのことばによれば,イエスは両手を釘づけにされて刑柱にかけられたのですか。―中華民国(台湾)の一読者より

      イエスは復活後,いく人かの弟子に現われましたが,使徒トマスはその場に居合わせませんでした。事のしだいを聞いたトマスはこう答えました。「我はその手に釘の痕を見,わが指を釘の痕にさし入れ,わが手をその脅に差入るるにあらずば信ぜじ」。(ヨハネ 20:25)釘(複数)について述べたトマスのこのことばから,キリストは両手を釘づけにされたのかと考える人がいます。

      イエスが実際に刑柱につけられたことをしるした聖書の記述を読むだけでは,イエスがどのように刑柱につけられたかはほとんどわかりません。福音書の記述者たちは,イエスが刑柱に釘づけされた,あるいは刑柱につけられたと述べているだけです。受刑に関するそれらの記述は,キリストがからだの一部を刑柱に突き刺されたのか,柱に縛られたのか,刑柱に釘づけにされたのかについては何も述べていません。―マタイ 27:35。マルコ 15:25。ルカ 23:33。ヨハネ 19:18。

      しかしイエスの復活の記録後,トマスが語ったヨハネ伝 20章25節のことばは,イエスの両手が刑柱に釘づけにされたことを明らかに示しています。ではどんな仕方で釘づけにされたのですか。それはわかりません。イエスの両手が重ねられて1本の釘で釘づけにされたのか,それとも並べられた両手がそれぞれ釘づけにされたのか,聖書は何も述べていません。もし両手が釘づけにされたのであれば,トマスはイエスの両手のことだけを語ったと考えられるでしょう。

      しかし,もう一つの可能性も度外視できません。イエスの両足が1本あるいは何本かの釘で刑柱に直接,または刑柱に取り付けられた小さな台につけられたと考える学者も多数います。イエスご自身も,弟子たちに現われた別の機会には,ご自分の手と足の傷に言及されたようです。イエスは確かにご自分が復活したイエスであることを弟子たちに確信させるため,「我が手わが足を見よ,これ我なり」と言われました。(ルカ 24:39)トマスはイエスの足のことは特に述べていません。しかし,言及されているのは手のことだけですが,「釘の痕」と語ったトマスのことばはキリストの手と足の両方を意味していたのかもしれません。

      ものみの塔協会の出版物の中には,イエスが両手に1本の釘を打たれ,もう1本の釘を両足に打たれたさし絵の載せられたものがあります。それはさし絵を書いた人自身の考えに基づくものにすぎませんが,イエスがそのような仕方で刑柱にかかったと考える余地は十分あります。こうした特殊な事柄は興味深い問題ですが,イエスの死に関して心に留めるべき主要な点は,その死によって成し遂げられた事柄です。一つには,その死によってモーセの律法を終わらせました。神は「これ[モーセの律法]を中間より取り去りて〔刑柱〕につけ」られたからです。(コロサイ 2:14,〔新〕)またイエスは,刑柱上の苦しみと死に際しても神への忠実を保ち,サタンからのいかなる誘惑や圧迫を受けても,人間は愛の心からエホバに忠実に仕えられることを立証しました。さらに,イエスが刑柱の上で遂げられた死は,あがない,すなわち信ずる人間を罪と死の束縛から解放するための価を備えるものとなりました。―テモテ前 2:5,6。コリント後 5:14,15。

      ● ヨハネ伝 7章39節に述べられている「御霊いまだ降らざりしなり」とはどういう意味ですか。―アメリカの一読者より

      ひとことで言えば,それは,キリストの弟子はまだだれも聖霊によって油をそそがれておらず,また天の命への召しを受けていなかった,という意味です。

      イエスはその死のおよそ6か月前,つぎのように言われました。「『人もし渇かば我に来りて飲め。我を信ずる者は,聖書に云へるごとく,その腹より活ける水,川となりて流れ出づべし』これは彼を信ずる者の受けんとする御霊を指して言ひ給ひしなり。イエスいまだ栄光を受け給はざれば,御霊いまだ降らざりしなり」― ヨハネ 7:37-39。

      ここでイエスは,その時すなわち西暦32年の仮庵の祭りの時まで,神の活動力つまり聖霊が存在していなかったということを意味されたのではないことは明らかです。イエスとその話を聞いていた者たちとは,神がはるか昔から聖霊を用いておられたことを知っていました。(創世 1:2。サムエル後

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