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  • 人間の信頼に値する神
    ものみの塔 1976 | 2月15日
    • それでは,神の約束のいずれかがあるいは果たされないかもしれない,などと心配する必要がどこにあるでしょうか。エホバ神は,すでに大きな犠牲を払っておられるのです。アブラハムに対する神の約束と誓いは,偽りではなく,全くの真実であることが証明されてきました。エホバは,人類の歴史を通じて,ご自分が信頼に値する方であることを実証してこられました。神がご自分の約束のことばを守らなかったことは一度もありませんでした。確かにエホバ神は,わたしたちが全幅の信頼を寄せるに値する神です。神は決してわたしたちを失望させません。それではわたしたちも,神のみ前で是認された立場を保つよう努め,神の期待に背かないよう励みたいものです。

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1976 | 2月15日
    • 読者からの質問

      ● 新世界訳におけるヨハネ 1章1節の翻訳はギリシャ語文法の規則を破るものですか。さらには唯一の神の崇拝と矛盾しますか。

      新世界訳はヨハネ 1章1節を次のように訳しています。「初めにことばがおり,ことばは神とともにおり,ことばは神[a god]であった」。ある人々はこの聖句の最後の部分にある「神[a god]」という翻訳に異論をとなえ,「神」の前に“a(ひとつの)”をつけるのはまちがいであると論じています。これは実際に誤訳ですか。

      ギリシャ語には英語の“a”に相当する不定冠詞はありません。しかし多くの場合,英語の“the”という語に訳される定冠詞ホがあります。たとえば,ホ・クリストス,ザ・クライスト(キリスト),ホ・キリオス,ザ・ロード(主),ホ・セオス,字義どおりにはザ・ゴッド(神)などです。

      しかしギリシャ語の名詞は冠詞を伴わずに使われることが少なくありません。文法学者はこれらの名詞をアナースラス,つまり無冠詞用法の名詞と呼んでいます。興味深いことにヨハネ 1章1節の最後の部分にある「神」はギリシャ語ではセオスであって,その前に定冠詞ホがありません。翻訳者はこのような無冠詞のギリシャ語名詞を英語に訳す場合どのようにしていますか。

      多くの場合,その句が正しい意味を伝えるようにするため,英語の不定冠詞“a”を加えます。たとえば,ヨハネ 9章17節の最後の部分のギリシャ語本文は牧師であるアルフレッド・マーシャル文学博士の行間逐語訳によると,字義どおりには次のようになります。「そして彼は言った ― ひとりの預言者[a prophet]です 彼は」。ここで「預言者」に相当するギリシャ語の前に定冠詞はありません。そこで翻訳者はこの語を「ひとりの預言者」と訳しました。英語の他の多くの翻訳も同様です。―欽定訳,新アメリカ標準訳。またチャールス・B・ウィリアムズの訳とウィリアム・F・ベックの訳。

      しかしこれはギリシャ語本文中に無冠詞の名詞が現われる場合,すべてこれを英語ではその名詞に不定冠詞をつけるということではありません。翻訳者はこれらの名詞をさまざまに訳しており,たとえ定冠詞を欠いている場合でも,その名詞が定まったものをさすと考えられるならば“the”をつけることさえあります。たとえばマタイ 27章40節において,幾つかの英語訳聖書は,「子」に相当するギリシャ語が定冠詞を欠いているにもかかわらず“the Son of God”(神の子)としています。

      ヨハネ 1章1節についてはどうですか。マーシャルの行間訳によってみると次のようになります。「初めにことばがあり,ことばは神と共にあり,そして神(God)はことばであった」。ごらんのようにこの聖句の最後の部分にある“God”の前に“the”はつけられていません。新世界聖書翻訳委員会は,そこに不定冠詞“a”を挿入する方法をとりました。これは,ひとりの神つまり大きな力を持つ神性者である「ことば」,イエス・キリストを,彼が「ともに」いた神,全能者のエホバから区別するのに役だちます。ギリシャ語に通じている人の中には,このような方法をとった翻訳者がギリシャ語文法の重要な規則を破っていると主張する人もいます。それはなぜですか。

      彼らによれば,問題は語順です。1933年にギリシャ語学者E・C・コーウェルは「ギリシャ語新約聖書における冠詞用法の明確な法則」と題する記事を発表しています。その中で彼は次のように書きました。「述部の限定的な名詞は,動詞に続く場合に冠詞を伴う。それが動詞の前にある時は冠詞を伴わない。……動詞の前におかれた述部の名詞は,冠詞を欠くというだけの理由で不定の,あるいは『性質を表わす』名詞として訳すことはできない。文脈上,述部が限定的と考えられるならば,冠詞を欠いていても限定的な名詞として訳すべきである」。

      ヨハネ 1章1節において述部の名詞セオスは確かに無冠詞で動詞の前におかれています。ギリシャ語では実際の語順は「神[述部]で あった[動詞] ことば[主語]は」となっています。この句についてコーウェルは次のように結論しています。「ヨハネの福音書の冒頭の句は,この法則から考えて述部を限定的な名詞として訳すべき多くの句のひとつである」。それで一部の学者は,「ことばは神[God]であった」とするのがこの句の真に正確な唯一の訳し方であると主張しています。

      コーウェルの述べている事柄は,ヨハネ 1章1節における「神」(a god)が誤訳であることを証明するものですか。たぶんお気づきのように,この学者のことばは,述部にある無冠詞の名詞が動詞の前にあるとき,「文脈上……考えられるならば」それを限定的な意味に理解すべきであると述べています。コーウェルはこの論議の中でさらに「文脈上どうしても必要な時にのみ」,述部はこの位置において不定であることを強調しています。ギリシャ語において動詞の前におかれた無冠詞の述部名詞がすべて限定的な名詞であるとは,彼はどこにも述べていません。破ることのできない文法の規則ではなくて文脈がこのような場合に翻訳者の指針でなければなりません。

      クリスチャン聖書のギリシャ語本文には,このタイプの述部名詞で,他の英訳者たちが不定冠詞“a”を加えた例が多く見られます。たとえば,マーシャルの行間訳による下記の聖句をご覧ください。「言う 彼に 婦人は: あなたさま,わたしは, と認めます ひとりの預言者[述部] である[動詞] あなたは[主語]」(ヨハネ 4:19)「言った ゆえに 彼に ― ピラトは: のではない 実際に ひとりの王[述部] である[動詞] あなたは[主語]? 答えられた ― イエスは: あなたは言う ひとりの王[述部] わたしは である[主語を含む動詞]」― ヨハネ 18:37。

      「ひとりの預言者(a prophet)」,「ひとりの王(a king)」(2回)という表現にお気づきですか。ギリシャ語においてこれらは動詞の前におかれた無冠詞の述部名詞です。しかし翻訳者はその訳語に不定冠詞“a”を付けています。この例は英語訳聖書に数多く見られます。さらに別の例としては新英語聖書のヨハネ福音書から下記の語をご覧ください。“A devil”(悪魔)(6:70); “a slave”(奴隷)(8:34); “a murderer(人殺し)…a liar”(偽り者)(8:44); “a thief”(盗人)(10:1); “a hireling”(やとい人)(10:13); “a relation”(親族)(18:26)。

      今ふたつの節の中であげたすべての聖句また他の多くの聖句について,アルフレッド・マーシャルはその行間訳において不定冠詞を用いた理由を説明しています。「翻訳の中にそれを使うことは個人的な判断の問題である。……訳者はそれが必要と思われる箇所には当然の事として‘a’または‘an’を挿入した」。もちろん(前述のように)コーウェルもマーシャルも,ヨハネ 1章1節における“god”(神)の前に“a”が必要であるとは認めませんでした。しかしこれは動かすことのできない文法の規則のためではありません。これは「個人的な判断」であり,それを表明するのは学者や翻訳者の権利です。新世界聖書翻訳委員会は“a god”(神)という訳により,この箇所において異なった判断を示しました。a

      一部の学者は,ギリシャ語において動詞の前におかれた無冠詞述部名詞が限定的な意義を持つ可能性を指摘しています。つまりそのような名詞は主語の性質あるいは立場を描写している場合があるということです。それである翻訳者たちは,ヨハネ 1章1節を次のように訳しています。「ロゴスは神性をそなえていた」。(モファット)「ことばは神性をそなえていた」。(グッドスピード)「ことばの性質は神の性質と同じであった」。(バークレイ)「ことばは神とともにあり,その性質にあずかっていた」。(翻訳者の新約聖書)

      「神性をそなえて」いる,つまり神のようであるということは,イエス・キリストご自身,全能であり,父なる神と等しく永遠であるという意味ですか。

      三位一体論者がイエスの神性に特別な意義を付しているのは事実です。この点で彼らは聖書にない特別なギリシャ語の用語ホモオウシオス(「実質を同じくする」,あるいは「同一本質の」)を使うことさえしています。新カトリック百科事典はコンサブスタンシアリティ(同質性)の項に次のことを述べています。この語はホモオウシオスの英訳です。「[西暦325年]第一回ニケア[会議]において定義された同質性は……したがってみ子がみ父と同等であること,み父の本質から出,み父と本質を同じくし,み父と同じく神性であることを事実,確認するものである。したがって必然的にみ子は創造されたものには属し得ないことになる。……神との絶対的な同一性,同質性,単一性のゆえに,本質の同一性は[人間が人間性を共通に有すると言う場合のように]特定の面に限られておらず,絶対的であり,文字どおりにひとつである」。

      しかし聖書中において,人はどこでこのような考え方に出会いますか。答えは簡単です。どこにもありません。書き記された神のことばにはホモオウシオスという語も,三位一体論者がその語に持たせている意義も見いだされません。それは哲学的思索にすぎないのです。

      イエス・キリストが「ひとりの神」であるという考えは,神が唯一であるという聖書の教えと矛盾しますか。(コリント第一 8:5,6)決してそうではありません。ヘブライ語聖書中において神ということばエローヒムは,時として力ある被造物をさして使われています。たとえば,詩篇 8篇5節に次のことばがあります。「あなたはまた彼[人]を神のような者たちよりも少し小さい者としはじめられた」。(新)(ヘブライ語エローヒム;「ひとりの神」,新英語聖書,エルサレム聖書)ギリシャ語七十人訳はここでエローヒムを「天使たち」と訳しています。この翻訳を作ったユダヤ人の翻訳者たちは,被造物である霊者に神という語をあてるに際して,一神論との矛盾をなんら感じませんでした。(ヘブライ 2:7,9と比べてください)同じく西暦一世紀のユダヤ人も,詩篇 82篇の1節と6節でエローヒムの語(七十人訳ではセオスの複数形,セオイ)が人間の裁き人を指して用いられているにもかかわらず,ひとりの神に対する彼らの信仰と矛盾するものをこの詩篇に見いだしてはいません。―ヨハネ 10:34-36と比べてください。

      イエス・キリストは聖書によれば「見えない神の像」です。(コロサイ 1:15)しかも天に召されているクリスチャンは天にはいる時,「神の性質」にあずかる者となり,満ち満ちたキリストのかたちを持つ者となることを期待しています。(ペテロ第二 1:4。コリント第一 15:49。フィリピ 3:21)彼らはなお地上にいる間に霊的な「新しい誕生」により,これに向かっての第一歩をすでに踏み出しています。(ペテロ第一 1:3,4)しかしこれは彼らが神と同等になるということではありません。またイエスがそのとき彼らと共に「神の性質」を持つということも,イエスにとってその事を意味するものではありません。

      ヨハネ 1章1節における「ひとりの神」という翻訳はギリシャ語文法をなんら曲げるものではありません。また復活後のイエス・キリストが「わたしの神」と呼び,イエスご自身が服するかたの崇拝と少しも矛盾していません。―ヨハネ 20:17。啓示 3:2,12。コリント第一 11:3; 15:28。

      [脚注]

      a ヨハネ 1章1節についてさらに詳しくは,1975年6月15日号「ものみの塔」364-367ページ所載の記事「偉大な代弁者 ― それはだれですか」をご覧ください。

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    ものみの塔 1976 | 2月15日
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