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キリスト教世界はどのようにプラトンの思想を取り入れているか目ざめよ! 1976 | 12月8日
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がなされています。(コロサイ 2:9)著名な聖書注釈者J・A・ベンゲルは,この聖句に対する三位一体論者の論議の一例を挙げています。「満ちみちた神聖そのものがキリストの中に宿っている。単に神の属性だけではなく,神の本質そのものが宿っているのである。……言わば神の実在全体が,キリストの中にごく身近にかつ現実的に宿っているのである」。
これは,「ニケア信条」(西暦325年)の言葉遣いを思い起こさせます。それは,イエスを「真の神より出でたる真の神,生み出されて造られず,み父と同質なる方」としています。新カトリック百科事典(1967年版)によると,この会議は,「み父と同質[ギリシャ語,ホモオウシオス]なる方」という表現によって,「イエスとみ父の全き平等を主張」しようとしました。
しかし,その教理を確立するために,キリスト教世界は再びプラトンの思想を借用しました。今度は,“新プラトン主義”として知られる哲学からです。大英百科事典は次のように述べています。「キリスト教神学は,物質に関する新プラトン主義の純正哲学と,[実在,つまり本質]に関するその教えを,“み父”に対する“み子”の関係を解釈する上での出発点としている」。
では,「わたしと父とは一つである」と言ったイエスは一体何を意味していたのでしょうか。神学博士J・H・バーナードは,「聖ヨハネによる福音書の批判的,評釈的注解」の中で次のように述べています。
「み父とみ子との間の,交友,意志,および目的の一致は,第四番目の福音書によく現われる主題であり……ここで簡潔かつ力強く表現されている。しかし,この言葉をこじつけて,オウシア[“本質”,“実在”を意味するギリシャ語]の同一性を示すものとするなら,一世紀の神学者の間に見られなかった考えを紹介することになる」― ヨハネ 5:18,19; 14:9,23; 17:11,22と比較してください。
イエスが神と同等で共に永遠の存在であるという教えは,霊感による聖書に根拠を持つものではありません。その教えは,終始一貫して,キリスト教世界がギリシャの哲学者プラトンの思想を借用したことを示しています。
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歩くことには非常に大きな益がある目ざめよ! 1976 | 12月8日
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歩くことには非常に大きな益がある
● 美しい公園や森を散歩するのはとても楽しいばかりか,よい運動になります。親しい友人や家族と一緒に散歩を楽しむ人は少なくありません。しかしながら,最も良い道連れは至高の神です。ところで,人はどうすれば目に見えない神と共に歩くことができるのでしょうか。
聖書には,「ふたりの者がもし約束しなかったなら,一緒に歩くだろうか」と述べられています。(アモス 3:3,口)このことばは,わたしたちが神と共に歩むことにどう当てはまりますか。全能者は,人間に対して,是認されたしもべまた友としてご自分と共に歩くようにとの招待を差し伸べてこられました。各人は,神と関係を結ぶことを求めることによって,神と共に歩くようにとの招待を受け入れる,つまり『約束する』のです。その時以後,その人は,日々の生活であたかも文字通り神のみ前にいるかのごとく振る舞わねばなりません。そして,聖書の次の警告に従っていなければなりません。「あなたがたは,食べるにしても,飲むにしても,あるいはほかのどんなことをするにしても,すべての事を神の栄光のためにしなさい」。(コリント第一 10:31)そのようにして歩く際に,わたしたちは謙そんであるべきです。(ミカ 6:8)すなわち,神の道の方が自分自身のそれより優れていることを認め,身を低くして神の道に従わねばならないのです。
神と共に歩くことによって,わたしたちは引き続き導きと援助を受けられるとの確信を抱くことができます。また,とこしえに慎み深く神と共に歩く見込みを待ち望めます。(ヨハネ 17:3)確かに,神と共に歩くことには現在においても将来においても極めて大きな益があります。
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