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クリスチャンを作りだすには何が必要かものみの塔 1961 | 10月1日
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ものなのです ― 多くの人がキリスト教を受け入れたのは心からそれを認めたからではなく,それにともなってくる物質的な利益のためだということです。このことは,キリスト教国以外の国々において見られるばかりか,キリスト教国だと自称している国々でも見うけられることなのです。
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神の目的とエホバの証者(その27)ものみの塔 1961 | 10月1日
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神の目的とエホバの証者(その27)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳
第19章 伝道の自由のための戦い
トム: 1930年代,エホバの証者と大きな宗教組織との間に争いが行なわれていたとき,「ものみの塔」協会のラジオ活動は大きな役割をはたしたとジョンさんは言われましたね。しかしファシズムとナチの国々における活動は如何でしたか。
ジョン: 当然に考えられることですが,カトリックの支配するイタリアとドイツにおいて,良いたよりの伝道は大きな反対を受けました。パストー・ラッセルが第1回のヨーロッパ旅行をした1891年以来,イタリアでは小規模ながらわざが開始され,1903年にはピネロロとチュリンで「ものみの塔」がほん訳されるようになりました。しかしそれは通信社の手を通して配布されていました。1905年,「世々にわたる神の経綸」がイタリア語にほん訳され,その結果として1912年にパストー・ラッセルが再びイタリアを訪れたときには,ピネロロに近いある村で40人ほどの会衆ができていました。
わざは徐々に発展しました。ファシズムのたい頭し始めた1922年から1927年までの間に5人の開拓者がスイスから来ました。しかし1925年にピネロロで開かれた国家大会はイタリアおよびスイスからわずか70人の出席者を見たに過ぎません。協会の本部からはエイ・エイチ・マクミランがこの大会に出席しています。ついで1932年に協会は連絡所を設置して活撥な運動を始めました。「御国は世界の希望」という冊子がイタリアで印刷され,スイスから送られた20人の有能な働き人は北イタリアの20の都市で20万部を配布しました。そこで問題が起きたのです。シュスター枢機官の新聞「リタリア」はこの活動を強く非難する記事をのせ,その結果1932年の7月ファシストの警察は協会の事務所に突然の手入れを行なってこれを閉鎖しました。1929年にカトリック教会と結ばれた協定に従ってファシストの政府が行動し,この聖書冊子の配布を弾圧した背後にはカトリック教会のあることを,警察も認めていました。
しかしドイツにおけるわざはそれとくらべて著しい進歩を示しました。1933年の特別運動のときにはアメリカ合衆国とほとんど同じ数の証者がドイツにいたほどです。これは1930年代に協会が行なった運動のひとつで「国際的な証言の期間」と呼ばれ,8日間にわたるものでした。それは全世界にわたる証者たちの一致した努力で,その週には毎日同じ証言をし,同じ出版物を配布して証者たちの一致を示しました。
4月8日から16日にわたって行なわれたこの特別な運動は「残れる者の感謝を捧げる期間」と呼ばれ,77の国々で5万8804人が参加したと報告されています。a 「危機」と題する冊子が配布されました。アメリカ合衆国では2万0719人,ドイツでは1万9268人が報告しました。ドイツの証者たちは227万1630冊の冊子を配布し,合衆国では87万7194冊が配布されました。
しかしカトリックの反対は強く,その上この運動の時までにはヒトラーが権力を得ていました。しかしそれに妨げられることなく強力な証言が行なわれたのです。1931年と1932年にはドイツの証者たちに対して係争中の告訴が2335件もありました。b それにもかかわらず1919年から1933年までの間に4800万冊の本と冊子,7700万部のドイツ語の黄金時代が配布されました。c
さてアメリカ合衆国では放送の使用をめぐって本当の戦いが始まりました。法王ピオ11世は1933年を「聖年」と宣言し,この年は諸国家に平和をもたらすためにカトリック行動を起こす年となりました。これに呼応して1933年の春,アメリカのカトリックは枢機官,司祭,牧師の指導の下に「ルサフォードをラジオ放送から追放せよ」との運動を全国的に始めました。その手だては,ボイコットするとラジオ放送局の所有者をおどして,証者たちとの契約,その録音された講演の放送を拒絶するように仕向けさせるものでした。当時,協会の放送網は国際的な規模にわたり,408の放送局が使われていました。d ボイコットのおどかしにも拘わらず放送の事業は拡大をつづけ,アメリカが大不況のさなかにあった1929年から1935年までの間,協会は放送のために何百万ドルを注ぎ込みました。e
この同じ時ラジオ放送とは別の奉仕が広く行なわれるようになりました。1分間33回3分の1回転の録音レコードを聞かせる公また私的の集まりが開かれたのです。これはラジオ放送に使うのと同じものです。1933年には4646のこのような集まりが開かれ,合計24万0434人が出席しました。f そのうえ宣伝カーも通りをめぐって聞く人のあるところならどこでも録音の講演を聞かせました。g その後何年ものあいだ宣伝カーの奉仕は大衆に音信を伝える効果的な手段となりました。
4月23日,「残れる者の感謝を捧げる期間」に最高潮を加えるものとして,協会の会長は「平和と繁栄におよぼす聖年の影響」と題する歴史的なラジオ講演を行ないました。この講演はローマ・カトリック教会が人々の前にさしのべた空しい希望を暴露し,それは神の御国によってくると約束された平和と繁栄に代ろうとする偽物であることを示しました。この講演は55以上の放送局から放送されました。
2ヵ月後の6月25日,158以上の放送局から1時間の長さにわたる講演の録音を放送することになりました。その準備として聴取者の関心をひき起すため,折りたたみになった招待状500万枚が家から家に配布されました。h カトリック教会はただちに猛烈な反対を始め,増大したカトリックのおどしによって「ものみの塔」のプログラムの放送を拒絶した放送局もありました。
ドイツにおけるわざの停止
一方ドイツにおいては政府が公然たる行動に出ているのを見て,ルサフォード判事はいそぎドイツにおもむきました。1933年1月にヒットラーが独裁者となって以来,反対は高まっていました。4月のはじめ警察はドイツのマグデブルグにある協会の大きな工場とベテルの家を占拠して閉鎖し,印刷機械に封印をしました。はじめ協会の支部はライン・ランド地区のバーメン・エルベルフェルトにありましたが,1926年,ベルリンの近くに移転することになり,ベルリンの北西約50マイルにある大都市マグデブルグを選んで新しい大きな工場とベテルの家が建設されました。ヒットラーの政府は反政府活動の告訴によって支部を閉鎖し,調査の終るまで兄弟たちは仕事をすることができなくなりました。実際に何の証拠も発見されなかったので,4月28日に協会は資産の返還を受け,これによって支部の兄弟たちは大きな熱意をもって働きはじめ4月の証言に関する報告を作成できたのです。
ドイツの事態を見守っていたルサフォード判事は,そのなりゆきと証言のわざへの影響をよく知っていました。この重大な事態の進展に対処するため,ルサフオード判事はエヌ・エイチ・ノアを伴なって時を移さずドイツに行きました。6月25日,合衆国において158の放送局から「平和と繁栄におよぼす聖年の影響」を再放送することになっていたその日に,ベルリンにおいて大会が召集されました。準備されていた通りその大会で「事実の宣言」が7000人の聴衆に提出され,満場一致で可決されました。これは協会の証言のわざに対するヒットラー政府の横暴な干渉に抗議したものです。この宣言は大統領から議会のメンバーに至るまで政府の高官のすべてに郵送され,250万部が一般に配布されました。報復はすみやかに来ました。3日後の6月28日,協会の資産はふたたび押収され,政府の命令によって印刷工場は閉鎖されました。そして180人のベテルの家族は退去を余儀なくされました。
この困難をひき起こした真の原因のありかは,ベルリンのカトリックの一牧師の書いた1938年5月29日の「ザ・ジャーマン・ウェイ」に掲載された次の記事からうかがわれます。
いわゆる「熱心な聖書研究生」(エホバの証者)の禁止されている国が一つある。それはドイツである。当時ドイツにおいて強固な地歩を占めていたこの派の解散は,カトリック教会の要望にも拘わらず,ブルーニング〔ヒットラー以前のドイツ帝国の首相〕の時代には実現しなかった。「カトリックを奉ずる」ブルーニング首相は熱心な聖書研究生の派を解散させる法律はないと答えていた。
アドルフ・ヒットラーが権力を得たとき,ドイツの監督団が再び要請をくり返したところ,ヒットラーは答えた,「これらのいわゆる『熱心な聖書研究生』はやっかい者である。彼らはドイツ人の統一ある生活をおびやかす。彼らはいかさま師だ。ドイツのカトリック教徒がこのようにアメリカの『ルサフォード判事』に汚されるのを私は許さない。私はドイツの『熱心な聖書研究生』を解散させ,その資産を人民の福祉のために捧げよう。私は彼らの文書をことごとく没収する。」ブラヴォー。
しかしアメリカの監督団はマンデレイン枢機官でさえも,カトリック教会を中傷したルサフォードの本をアメリカの本屋から追放することができなかった。i
マグデブルグにある協会の資産を没収したことは国際資産権を踏みにじるものでした。その資産はアメリカの法人の所有になっていたからです。ドイツ政府の横暴な行為に抗議して資産の返還をはかるため,アメリカの国務省に訴えが出され,アメリカ国務省とドイツ政府との間で交渉が進められた結果,ドイツ政府は協会の資産一切の返還を命令し,それは兄弟たちの手にもどりました。
しかし6月に資産が没収されたとき与えられた命令は協会の伝道活動をも禁ずるものでした。この禁令は解除されず,6月から10月までの間に国家警察は2万5000ドルに上る文書,本,冊子,聖書その他の協会の所有物を押収して持ち去り,燃やしました。証者の集会は禁止され,文書の配布はとめられました。j それでも精力的なドイツの証者たちはやめませんでした。人間のどんな命令よりも神から与えられた使命を第一に受け入れた彼らは,ナチスがドイツを支配した全期間にわたって戦いをつづけました。1933年11月1日号「ものみの塔」(英文)の主な記事「彼らを恐れるなかれ」はドイツの証者たちを大いに力づけました。
攻勢を保つ
トム: 聖年を暴露したルサフォードの講演から,他にどんな出来事が起りましたか。
ジョン: 反対は高まり,特にニュージャーシイ州ではその激しさを加えました。1933年の7月,ヒットラーによるドイツの資産押収がどんな結果をもたらすか未だ不明の状態にあったとき,協会の会長はニュージャーシイ州プレインフィールドで公開集会を開くことを決定しました。そこでは証者たちが迫害にあっていたからです。ルサフォードの講演の題「偏狭」は時宜に適したものでした。この大会のときカトリックは暴力を用いる手段に訴えたからです。k
プレインフィールドはニュージャーシイ州におけるカトリックとの戦いの中心地でした。7月30日,日曜日の特別なプログラムのために協会はプレインフィールドでいちばん大きな劇場二つを借りて,一方から他方ヘプログラムを中継するようにしました。主な会場となった劇場にはラジオ放送の設備が設けられてWBBRも含む多くの放送局から講演が放送されましたこの集会で案内者をつとめた人の多くはブルックリンの本部で働く人々でした。次のような報告が寄せられています。
案内者の各人には,がんじょうに包装されて封印された包が渡され,指図があるまでは開いてはならないと命ぜられていました。ルサフォード兄弟の到着の直前,50人以上の警官が「保護」の名目で二つの劇場の中にはいりました。警官は各案内者の持っている同じ大きさの包みに気づきました。警戒心を抱いた警官の一人は兄弟に近づいて包の中味は何かと尋ねました。その兄弟は知りませんと答えました。それで警官はその包みを開けるようにと命じましたが,その兄弟は包みの取扱いについて命ぜられている事を説明して,開けることを拒絶しました。警官は上司に報告して,今度は上司と共に来て包みを開くようにと再び命じましたが,兄弟は再度ことわりました。それで上司は包みを取り上げることを命じ,警官はこわごわそれを持ち去りました。その包みの中から出てきたのは警官の考えたような爆弾ではなくて,その日の午後ルサフォード兄弟の話すことになっていた講演をおさめた「黄金時代」50冊でした。警官はそれを包み直してはずかしそうに返しました。
ルサフォード兄弟が劇場に到着してみると,驚いたことに劇場正面の舞台ののぼり口は警官に占拠されており,演壇に上ったルサフォード兄弟は幕のうしろに2台の機関銃のすえられているのを見ました。機関銃はルサフォード兄弟と聴衆に向けられており,ルサフォード兄弟は機関銃を背にして話さなければならないようになっていました。激怒したルサフォード判事の厳重な抗議にもかかわらず,警官は暴動に備えて秩序を維持する必要があると言って機関銃を取り除きませんでした。しかし彼らの意図が何であったにせよ,講演は支障なく終って熱心なかっさいを受け,後に出版された「偏狭」という冊子も広く配布されました。
逮捕はつづきました。はじめ統計をとることは行なわれませんでしたが,1933年にはアメリカ合衆国全土で268件,1934年には340件,1935年には478件,1936年には1149件の逮捕が報告されています。l 御国伝道者は法廷に引かれて無免許の販売,治安妨害,無許可の行商,安息日の律法の違反などの罪状で告訴され,福音の伝道者としては扱われずに勧誘人,行商人と見なされたのです。a これは主として法廷において弁護すべきものであり,また家庭を訪れて自分たちの宗教を実践することは憲法に保障された権利であるゆえに,エホバの証者はこの戦いを最後までつづけました。
アメリカ合衆国全土の兄弟たちを援助するため協会はその本部に法律部を設け明らかに発展しつつあった戦いにこの全力をあげての援助と助言を与えることになりました。ルサフォード判事みずから弁護士でしたが,協会の会長として管理,執筆,旅行に多忙をきわめ,法律上の細かい事柄を行なうことは不可能でしたから,弁護士の兄弟たちが本部に呼ばれてこの新しい部門の運営にあたりました。
法律家であるルサフォード兄弟の有能な指図によって「裁判の手続」が協会の手で印刷されました。b これは法廷に出た兄弟たちに裁判の取扱い方を教え,また兄弟たちを励ますものでした。更にこれによって自分たちの持つ法律上の権利を教えられた兄弟たちは,伝道をつづけるように励まされ,それらの権利を奪おうとした役人たちの前で自分の立場を維持することができました。また奉仕会において模擬裁判が行なわれ,定期的な訓練が与えられました。兄弟たちは順番に参加し,崇拝の自由というこの問題において自分の立場を弁明したのです。これは戦いの行なわれた地区に住む兄弟たちにとって特に助けとなりました。また敵意あるいは好奇心から質問をする人に野外で会うとき,答えるのにも役立ちました。
トム: 警察が敵意を抱いてあなた方をどんどん逮捕したのであれば,あるいはニュージャーシイ州プレインフィールドでしたように公開集会に機関銃を持ち込んだことから見ると,下級裁判所で勝つ機会は余り無かったのではありませんか。このような問題になると,一般の人々の空気は険悪になります。少なくとも私はその事を経験しました。
ジョン: たしかにそうです。下級裁判所における裁判ではたいていエホバの証者が敗れました。しかし初めから上訴の方針がとられました。上訴しなかつたとすれば,不利な判決が積み重ねられて伝道のわざを不可能にしてしまったことでしょう。法廷における戦いは長く困難なものでした。しかし崇拝の自由のためにエホバの証者がとった立場は正しいものと証明され,現在に至るまであらゆる宗教の人々にとっての益となってきました。法廷における法律上の戦いについては,まだお話しすべき事が沢山ありますが,また後にこの問題をとりあげましょう。
数の力で敵を圧倒する
それと同じ頃これら「問題の地点」で伝道を行なう別の方法が考え出されました。1933年,特別な伝道活動を行なうため自発的に働く人々がアメリカ合衆国全土から求められました。ここでもエホバの証者は攻勢に出たのです。この特別な奉仕に参加することを自発的に申し出た1万2600人の伝道者は,問題が起きるか,あるいは予想される区域に行って家から家に行き,特別な野外奉仕を行なう用意を何時でもととのえていました。これらの場合には特別な証言の方法を用いることが必要でした。その場所では普通の野外活動の最中に兄弟たちが逮捕されたからです。このような逮捕の報告がブルックリン・ベテルの本部に報告されると,その場所に行って特別なわざを行なうようにとの指令が最も近くの分団に発せられます。アメリカ合衆国全土では78の分団がありました。c 各分団は10台から200台の自動車で構成され,各自動車には5人ずつ乗り込みました。行動の緊急指令が発せられると,全部の自動車のグループは特別に発表された集合地点に集まります。通常それは問題の起きた町から数マイル離れた田舎に選ばれました。そこで詳しい指図が与えられ,各自動車の行くべき場所が割り当てられます。ひとたび行動を起すと,その「問題の起きた地点」全部を30分から60分間でくまなく伝道できるように区域を分けました。
誰かが逮捕された場合,警察署に着き次第,前以って知らされていた場所に電話をかけると弁護士が保釈金を持ってかけつける手筈ができていました。証言のわざが行なわれている最中に,兄弟たちの委員は警察に行ってその朝その場所で証言している証者全部の名前を知らせました。この訪問が終る頃にはたいてい証言はあらかた終っていました。
数だけの力で反対者を圧倒するこの方法により,たとえ反対が大きな町でもほとんど全部の家に御国の良いたよりを伝えることができました。このような場合,敵は留置場に収容できるだけの人数,20人から30人を逮捕するのがせいぜいでした。その町の会衆がこの事をしようとするなら,その半数が投獄されて10日から90日のあいだ拘留され,伝道はほとんど行なわれないままになるでしょう。これらすべての可能な方法を用いることによって,証者たちはあらゆる方面からの反対にもめげず伝道のわざを押し進めてゆくことができたのです。
[脚注]
a (イ)1933年7月1日「ブルティン」
b (ロ)1933年度年鑑122,123頁。
c (ハ)1934年度年鑑145頁。
d (ニ)右に同じ。60-64頁。
e (ホ)右に同じ。63頁。
f (ヘ)右に同じ。64-66頁。
g (ト)1935年8月「ブルティン」
h (チ)1934年度年鑑60-64頁。1933年「黄金時代」第14巻530-536頁。1933年6月,特別号「ブルティン」
i (リ)「事実に直面せよ」(英文)(1938年)60,61頁。
j (ヌ)1934年度年鑑127-146頁。
k (ル)1934年度年鑑66頁。
l (ヲ)1934年度年鑑53頁。1935年度年鑑31頁。1936年度年鑑65頁。1937年度年鑑51頁。
a (ワ)1930年度年鑑25-30頁。
b (カ)1933年度年鑑39-49頁。
c (ヨ)1934年度年鑑46,49頁。1933年5月号ブルティン。
[604ページの図版]
「偏狭」1933年
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読者よりの質問ものみの塔 1961 | 10月1日
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読者よりの質問
● 伝道の書 1章18節に出ている知恵とは何ですか。―アメリカの一読者より
伝道の書 1章18節(新口)にはこう書いてあります,「それは知恵が多ければ悩みが多く,知識を増す者は憂いを増すからである。」聖書には2種類の知恵,つまり神の知恵とこの世の知恵があると言っています。この聖句は明らかに,神の知恵を指しているのではありません。なぜなら神の知恵については,次のように言われているからです,「知恵を求めて得る人,悟りを得る人はさいわいである。知恵によって得るものは,銀によって得るものにまさり,その利益は精金よりも良いからである。知恵は宝石よりも尊く,あなたの望む何物も,これと比べるに足りない。その右の手には長寿があり,左の手には富と,誉がある。その道は楽しい道であり,その道筋はみな平安である。知恵はこれを捕える者には命の木である。これをしっかり捕える人はさいわいである。」― 箴言 3:13-18,新口。
これは真の知恵であり,エホバ神を恐れることと,イエス・キリストを通してエホバの準備されたものを受けいれることからきます。この種の知恵は悩みをもたらしません。さらに,エホバ神と,エホバ神がつかわしたその御子,イエス・キリストにかんする知識を増すなら,このような知識を得,神の知恵に従ってこの知識を使うすべての人にとって,永遠の生命を意味します。―ヨハネ 17:3。
しかし,伝道の書 1章18節に出てくる知恵は,この世の知恵であり,神との関係を認めていないから憂いを増すものです。この世的に賢い人は,知識を増しますが,その得た知識を非神権的な人々の知恵に従って用います。その結果,自分自身に苦しみを増すばかりです。そのことは,ちょうど今日の世界に見られます。図書館や学校あるいは他の施設に行けば,かつてなかった程のたくさんの知識を得ることができます。ところが,人類には今までなかった大きな苦しみが,おそっているのです。この種の知恵について,使徒パウロは次のように書きました,「なぜなら,この世の知恵は,神の前では愚かなものだからである。」― コリント前 3:19,新口。
● 排斥されている間に,死んだ時,エホバの証者がその人のために,葬式をすることはただしいことですか。―アメリカの一読者より
エホバの僕の会衆は,排斥されている時に死んだ人のために,葬式をすべきではありません。また献身したクリスチャンが,このような葬式を行なってもなりません。たとえその家族のほかの者が,エホバの証者であり,良い評判を得ているばあいでも,同じことです。このような葬式には,会衆のだれも出席してはりません。排斥された人が,実際のところ,受け入れられておらず,すでに会衆から排斥されていたのに,その人を会衆で受けいれていたという印象を,外部の人に与えたくないわけです。
ダビデは,死に臨んだ時ですら,このような人と交わりたくないと言い,正しい気持を表わしました。「どうか,わたしを罪びとと共に,わたしのいのちを血を流す人々と共に,取り去らないでください。」― 詩 26:9,新口。
● イザヤ書 29章4節の聖句はどう説明すべきですか。―アメリカの一読者より
イザヤ書 29章4節(新口)にはこう書かれています。「あなたは深い地の中から物言い,低いちりの中から言葉を出す。あなたの声は亡霊の声のように地から出,あなたの言葉はちりの中から,さえずるようである。」
イザヤ書 29章の1節は,この言葉がアリエルに対して述べられたものであることを示しています。アリエルについては,「新世訳」の脚注は,「『アリエル』多分『神の祭壇の炉』もしくは『神のしし』を意味する。ここではエルサレムを指す。」ですからこの預言は,地上の残れる者たちによって表わされている霊的エルサレムにあてはまるでしょう。
これらの言葉は,神の地上の制度が,神の御国の敵に攻撃されて,非常に低い状態になることを示しています。神の民は,ゴグに攻撃される時,いわば地に押しつぶされそのために,彼らの述べる言葉も,彼らの出す声も,低い屈辱の中から出てくるようでしょう。まさに地のちり中から上がって来る声のように聞こえるでしょう。また,あたかも霊媒者が,地のちりから上がってくる声と話をしているようでしょう。しかし,次の節の示すところによると,神は,そのように低められたご自分の忠実な民に注意を向け,彼らのために奇跡を行なって敵の力から彼らを救出します。そのため彼らの敵や圧迫者たちは,暴風に吹き去られるちりやもみがらのようになります。
● もし排斥された肉身の兄弟とその家族が私を訪ねて来たら,彼らを家に招じ入れてもよいですか。また必要な場合一晩泊めることができますか。―アメリカの一読者より
ある会員を排斥しても,その排斥は,生来の肉親の関係を解消することにはなりません。たとえば,排斥そのものは,結婚のきずなをやぶるものではありません。ですから,排斥された肉親の兄弟が,クリスチャンの一致ではなく,家族関係を基礎にして訪問するなら,その肉親の関係にもとづいて礼儀正しくむかえることができます。それももちろん彼と霊的に交わり,会衆の一会員として遇するためではなく,ただ家族関係とか他の世俗的な事がらを話し合うにとどまります。
人は,このことについては合理的でなければなりません。もしその親せきの者が,ほかの町から来ていて,その日に帰ることができず,一晩泊らねばならないなら,霊的に親密な者でなくても,親せきであり,彼と一緒にいる者も血肉のつながりのあるものですから,親切に一晩の宿を提出しても何も悪いことではありません。
もちろん,家族的関係があるという理由だけで,しばしば交わることはよいことではありません。これは,人が主なる神への義務を果たすのを妨げるかも知れず,また,人の霊的健康と忠実を危険にさらすかも知れません。マタイ伝 12章47節から50節に示めされている,このことを裏書きする原則をいつも心に留めておくべきです。ある人がイエスに,「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが,あなたに話そうと思って,外に立っておられます」と言ったとき,イエスはこう答えました。「わたしの母とは,だれのことか。わたしの兄弟とは,だれのことか…天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも,わたしの兄弟,また姉妹,また母なのである。」
● ハバクク書 3章3節(新口)は次のように述べています,「神はテマンからこられ,聖者はパランの山からこられた。」これは神がどこからこられたかを示すために用いられてきましたが,それはこの聖句の正しい理解の仕方ですか。―アメリカの一読者より
そうではありません。エホバ神がテマンからこられるという意味は,エホバ神のはじまりがそこにある,あるいはエホバがそこに住まれるという意味ではありません。地においても天にあっても,エホバ神にはじまりはありません。エホバ神は「とこしえからとこしえまで」のお方です。しかし神は天に住まれます。「天はわが位……である。」― 詩 90:2。イザヤ 66:1。
ここで預言は,ハルマゲドンの戦いのとき,滅びをもたらす怒りを以て神がこられることを述べているのです。そのことは,昔に行なわれた神のみわざと,ここでくらべられています。幻の中で預言者は神がテマンから,あるいは新世界訳の脚注「e」の示すように神が南からこられるのを見ます。事実,むかしエホバはシナイ山からテマンの地を通ってエルサレムに至るまで御自分の民を勝利のうちに導かれました。申命記 33章2節にあるモーセの祝福の言葉と,シシ記 5章4,5節にあるデボラの歌とは,この同じ事を述べたものです。「ヱホバ,シナイより来りセイル(テマンはその一部)より彼らにむかひて昇りパランの山より光明をはなちて出で」「あゝヱホバよ汝セイルより出でエドムの野より進みたまひしとき地ふるひ天またしたたりて雲水を滴らせたり,もろもろの山はヱホバのまへにゆるぎ彼のシナイもイスラエルの神ヱホバのまへにゆるげり。」
● なぜイエスはマタイ伝 24章15節のところで,「読者よ,悟れ」という言葉を括弧の中に入れましたか。預言の適用を考慮するときには,いつでも悟りが必要ではないでしょうか。―アメリカの一読者より
たしかに神の御言葉を考慮するときは,いつでも悟りが必要です。しかし,マタイ伝 24章15節(新口)に言及されているダニエルの預言の適用には,特別の注意が必要のようです。「預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が,聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ,悟れ)……。」
ユダヤ人たちはダニエル書 11章31節 ― イエスがここで言及している ― を,西暦前168年のアンテオカス4世(エピハネス)による宮のけがれに適用しました。いまでも一般にうけいれられているこの適用法は正しいものでなかったので,イエスは注意の言葉を添えて,私たちが同じあやまりに陥らないようにされました。「荒らす憎むべきもの」についてのダニエルの預言は,古い昔に成就されたのでなく,むしろキリストの再臨を証明する大きなしるしの一部として現代に成就しています。ものみの塔の出版物中で幾度も指摘されたごとく,それは神の御国に敵対する悪魔の制度です。現在ではそれは国際連合です。その理由の故に,それは神の目から見て憎むべきものであり,荒廃をもたらします。つまり神の御国に頼らずに,それに頼る者たちは,ハルマゲドンのときに滅ぼされてしまうということです。
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