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真実を歪曲するものみの塔 1963 | 7月15日
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の歪曲が行なわれる事が多くあります。人類の起源とか下等動物から除々に転じてきたとかについて,大ざっぱで確かな根拠も持たぬ事柄がさながら事実であるかのごとく断定的な仕方で語られます。真実を曲げるこの種の傾向に一種の義憤をさえ抱いて取組んでいる科学者は哲学博士イバル・リスネーで,その著作はすでに14ヵ国語で出版されています。この人の近著,1961年に出版された「しかし神はそこにいた」aの中で彼は,「ネアンデルタール人や北京原人を復元しようとするすべての試みの言い知れぬ愚かさ」について述べさらに次のごとく続けます。「世界のどこの博物館に行っても獣的な顔つきを備え,誇張されたように毛深い石こう像がいかにも野蛮なおももちで見る者をにらんでいる。その容貌について言えば,顔色はチョコレートのような茶色,毛髪はぼうぼうで乱れ,あごはぐっと前に突き出ており,ひたいはへこんでいる。―旧石器時代の皮ふはどんな色であったか,その毛髪はどのようになっていたのかについては全く手がかりがないのにもかかわらず,またその人相や顔の特徴についてはほとんどなにも手がかりがないのと同然であるにもかかわらず」。「この分野におけるアメリカの権威者T・D・スチュワートが,1948年に,毛髪,目,鼻,くちびる,その他の顔の表情を復元する事は不可能であると指摘したのは正しい。『初期の人類の表情が我々の表情よりもきつかったという可能性は少しもない』と彼は書いている。
「博物館に北京原人やネアンデルタール人の像がホモサピエンス(現代人)の像と共に並んでいると,いかにも肉体的また知的発展がなされたかのような概念を見る者に与えずにはおかない。しかしその概念は当今の科学的な論説とはすでに一致していない。この種の石こう像をつくる者はとかく自分の想像に走る事がある。……こうした半人半獣像の展示は現代における道徳上の尊大さのあらわれであり,『かくも我々は進んできたのだ』という独善的な考え方に鼓吹されている」。また他のところで科学者リスネーは,いかなる時代においても人間は他の下等動物より傑出していた事,および,常になんらかの形式の宗教を保持していた事を示しています。そして彼はある本の巻末において読者に次のように問いかけています。「なぜ我々は古い理論にがんこに執着するのだろうか。我々の起源を神に見出さず,動物に見出そうとするのはなぜだろうか」。明らかにそれは,創造者に帰すべき恩義を認めるのを渋っているからであり,神に服する事をちゅうちょしているからです。人は「エホバこそ神にますなれ,われらを造り給へるものはエホバにましませば我らはそのものなり」という言葉の真実を認めようとしていません。―詩 100:3。
あげれば他にいくらでもあるでしょうが,ここに取りあげたいくつかの例を考えるだけでも,真実を曲解し,しかも,疑いの気持からそうした行為をなす者の有罪性がうかがわれます。それで,「買い手は注意せよ」の原則は,どんな種類のものであろうと真実を看板にし,しかもそれにもとづいて人の信念や行為が決定されるものすべてを読んだり聞いたりする場合にいつもしっかりと心にとめておかねばなりません。神の言葉である聖書も「凡てのことを試みて良きものを守」れとすすめています。―テサロニケ前 5:21。
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孤立したところで開拓奉仕ものみの塔 1963 | 7月15日
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孤立したところで開拓奉仕
◇ 開拓奉仕は人を強め円熟させます。ナイジェリアの開拓者の一人は自発的に,善意者のいる孤立した町に行って奉仕しました。その兄弟からの手紙です。「悪鬼的な風習に従っている人が実に多く,説得するのはやさしい仕事ではありませんでした。魔術や姦淫は公然と行なわれているばかりでなく,称賛さえ受けていました。『姦淫や淫行を許さないというなら,とてもあなたの宗教に改宗する人はいないだろう』という言葉を何度も聞きました。この土地の人は異教徒だろうと想像される方が多いと思いますが,決してそうではありません。ここにいる巫女や男魔法師などは皆,住民の80パーセントと言われるメソジスト教会の熱心な会員とされています。残りの20パーセントの人は,使徒教会かスピリチュアル・ホリネス教会に属しています。しかし『神の言は生命あり,能力あり,もろ刃の剣よりもとくして』との言葉通りです。それで,時たつうちに真理を認める人が次第にあらわれ,会衆も組織されています。私が新しい任命を受けて他の土地に移る時までに,この会衆は34人の伝道者を報告するようになりました」。―1963年エホバの証者の年鑑より
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