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人々でなくて悪を憎みなさいものみの塔 1958 | 10月15日
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を行つている。もし,欲しないことをしているとすれば,それをしているのは,もはやわたしではなく,わたしの内に宿つている罪である。』人々が犯す罪の多くは,弱さ,環境,過去における幼年期の不幸な状況が原因していて,真の自分を少しも表現していないのです。ある人は無知のために悪を行つていますから,知識を得るならばすぐに悔い改めるかも知れません。―シンゲン 3:12。ロマ 7:15,17-20,新口。
人が憎しみでかたまつた時
以上のような場合は,罪は実際にその人の内的欲求やあこがれを示すものではありません。ところが,このような人々がいます。つまり自分が悪いことを十分に知りながら,故意に罪を追い求め,それを楽しむほど堕落した人です。彼らは余りにも深く自己の性質を罪の中に没しているので,罪から引き離すことは困難であり不可能です。彼らは,ヱホバの御前にゆるしをこうことができないほど極端に走ります,『人には,その犯すすべての罪も神を汚す言葉も,ゆるされる。しかし,聖霊を汚す言葉は,ゆるされることはない。』啓発的なヱホバの霊に反して故意に,継続的に犯される罪はゆるされません。明らかな霊の働きに対する反抗はゆるされないのです。人が,悪であることをよくよく知らされてもなおかつ悪行に固執し,それが,取り去ることのできない性質の一部となつて根深くしみこんだ時,人は,その罪と悪行を好んで離れない人を憎むべきです。人と罪が離れなくなつて,永久に合同した時,それ以外にどんな方法があるでしようか。―マタイ 12:31,新口。
そのような矯正しがたい人たちは,『悪を憎み,善を愛し』という命令を逆にして,『善を憎み,悪を愛』す者になつたのです。彼らのためにはとりなしはなされません。『あなたはこの民のために祈つてはならない。彼らのために嘆き,祈つてはならない。またわたしに,とりなしをしてはならない。わたしはあなたの求めを聞かない』とヱホバは言われています。神ご自身が,『これ(神)を憎む者にはてきめんにその報いなしてこれを滅ぼしたもう。ヱホバは己を憎む者にはゆるやかならずてきめんにこれに報いたもう』でしよう。ある人々は,どのような強いこらしめにも,悪を離れることができないほどになります。そうなればもう悪だけを滅ぼして人間を救うことができなくなります。分離しないので両方とも共に滅ぼされなければなりません。そのような人々は,神が愛の象徴であるように,悪の象徴となります。邪悪な行いは実際に,矯正不可能な悪い心の表現であり反映です。そのような人々に対してイエスは言われました,『あなたがたは自分の父,すなわち,悪魔から出てきた者であつて,その父の欲望どおりを行おうと思つている。』マタイ伝 23章においてはイエスは,彼らを烈しく非難して尋ねました,『へびよ,まむしの裔よ,なんじらいかでゲヘナの刑罰を避け得んや。』― アモス 5:15。ミカ 3:2。エレミヤ 7:16。申命 7:10。ヨハネ 8:44,新口。マタイ 23:33。
ヱホバを憎む悪者が,その悪と憎しみから離れない時,私たちがどうして彼を悪から離すことができますか。私たちが彼の罪深さを憎むのは正当な事です。『汝悪しき者を助けヱホバを憎む者を愛してよからんやこれがためにヱホバの前より怒なんじの上に臨む。』憎しみが非常に烈しく,心にしみこんでしまつていて,その人から取り去ることができないならば,その憎しみは,愛を持つて忍耐強く交渉できるところのアダムから受けついだ罪もしくは無知に起因する敵意以上のものです。『ヱホバよわれは汝をにくむ者をにくむにあらずや,なんじに逆いておこりたつものを厭うにあらずや。われいたくかれらをにくみてわが仇となす。』― 歴代下 19:2。詩 139:21,22。
これら邪悪の象徴である矯正不可能の人たちは,自らをはつきりと示します。しかし,神から離れている一般の人々に対しては,私たちはキリストが考えられたごとく見なすことができまたそうすべきです,『群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて,倒れているのをごらんになつて,彼らを深くあわれまれた。』私たちは彼らの罪は憎んでも,愛を持つて彼らに伝道することができます。悪を行う矯正可能な人ではなくて,悪を憎めと言われると,それはむずかしいことのように思えるかも知れません。しかし,よく考える時,私たちは過去ずつと自分に対してそのようにしてきたことに気づきます。ですから他の人々に対しても同じように行いましよう。―マタイ 9:36。
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くつろいだ気分ものみの塔 1958 | 10月15日
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くつろいだ気分
テキサス州リチァードソンでメシヤ・ルーテル派教会の牧師マーク・ビー・ハーバーナーは,大人の日曜学校出席率は100パーセント増加したと発表しました。そして,今ではコーヒーとシガレットが給仕されていると説明しました。『家庭的なくつろいだ気分を禁ずる箇所は,聖書のどこにもない。』
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