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読者からの質問ものみの塔 1970 | 3月15日
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べきであると唱えられています。こうした法律的な問題においてわたしたちはいずれの側にもくみしませんが,妊娠中絶がクリスチャンに許されるかどうかという問題に関して聖書がなんと述べているかを指摘することができます。
生命は神の賜物であり,神聖なものであるということがこの問題に関する聖書の基本的な見方です。大洪水後の人類の祖先であるノアとイスラエル国民の双方に対し,エホバは殺人もしくは他の者の命を奪うことを禁じられました。(創世 9:5,6。出エジプト 20:13)しかし人間の生命はいつをもって始めとするのですか。神学者および科学者はこの点をくり返し論じてきました。しかし,クリスチャンが問題にするのはエホバはどのように見ておられるかという点です。
モーセを通じて与えられた神の律法の中で,成育過程にある人間の胎児は一個の生命もしくは魂とみなされました。神はこう宣言されました。「人もし相争ひて妊めるをんなを撃ちその子を堕させんに別に害なき時は必ず……つみせられ……もし害ある時は生命に生命を償(ふべし)」。(出エジプト 21:22,23)神は,妊娠開始後,一定の期間が経過したのちにこの律法があてはまるとは述べておられません。この点に注意してください。女が妊娠していた場合,その成長中の胎児 ― 正常な環境下ではやがて一個の独立した魂として生きるもの ― を死なせるような行為は殺人とみなされました。
したがって,単に不本意な出産を避けるための妊娠中絶は人間の生命を故意に奪うのと同じです。(ヨハネ第一 3:15)妊娠を臨月まで続ければ母体の健康もしくは生命に害があるだろうという医師のことばだけで妊娠を中絶するのもこれと同じです。a 医師の見解はどれだけ誠実なものであるにしてもやはり一種の見解にすぎないことを忘れてはなりません。UPIの一報道によると,英国,ハル市の婦人は重い心臓病をかかえ,心臓の働きを助けるための電気装置をさえ使わねばなりませんでした。婦人が妊娠したとき,医師たちは「陣痛の苦しみには耐えられないであろう」と語り,妊娠中絶を勧めました。しかし婦人はこれをこばみ,他の医療処置を求めてなんとか命を保とうとしました。やがて婦人は健康な女児を出産しました。婦人は赤子を腕にだきながら,「努力した価値があります」と語りました。
人間のからだがもつ不完全さのゆえに,どんな妊娠にも危険が伴っています。将来こうした事態を改め,人間の完全さと健康とを回復し,忠実を保った者を復活させてさえくださるという神のお約束は,ほんとうに感謝すべきものではありませんか。それで,自分の持つ命と健康を守る努力をしながらも,完全な状態でのとこしえの命の希望を失う結果になることすべてを避けるのは腎明です。―マタイ 16:25-27。黙示 21:8。
結びに,産児調節および夫婦間の行為については数多くの個人的な見解があることにふれておきましょう。わたしたちはそのすべてを取り上げようとしたわけではなく,またその意志もありません。この記事の目的は聖書にある事柄を示すことです。こうした問題についてさらに細かな助言もしくは決定を求める人がいるかもしれませが,わたしたちはそれをできません。しかし,この論議が読者の助けになることを願っています。
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新たな希望を見いだした大学生ものみの塔 1970 | 3月15日
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新たな希望を見いだした大学生
● 世界の他の場所と同じく,チリにおいても学生がしばしば騒乱を起こしており,その結果,若者の多くは真の神をさがして,神に仕え,神に賛美をささげたいと願っています。ひとりの若者がエホバの証人の集会に来て聖書研究をしたいと申し出ました。彼は若い大学生で,人類に安全と幸福をもたらす政府はないものかと考え,政治にのみ関心をいだき,社会改革を求めて,大学生の過激グループの一指導者となっていました。しかし,ほどなくして,そうした努力もより良い世界をもたらすものではないことに気づき,最後の希望として聖書に心を向けたのです。御国の統治について学んだ彼は言い知れぬほど喜び,直ちに野外奉仕に参加して他の人々に話したいと述べました。それに加えて,仲間のふたりの学生に話したところ,それらの学生たちも彼とともに聖書研究に加わることになりました。今はこの学生は自分で六つの聖書研究を司会しており,研究生の数人は集会に出席しています。彼は11月の全国大会でバプテスマを受けることを楽しみにしています。この学生との聖書研究を司会している宣教者はこれらの3人の学生との聖書研究はとても大きな喜びであることは言うまでもありませんと述べています。
― エホバの証人の1970年度年鑑より
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