-
神からの報いを待ち望みなさいものみの塔 1971 | 9月1日
-
-
は決してささいな“報酬”ではありません。そうです,「足ることを知りて敬虔を守る」のは大きな利得です。(テモテ前 6:6)使徒パウロのように,「我は如何なる状に居るとも,足ることを学びた(り)」と言えるのは,思いに真の喜びが宿っている状態といえます。したがって,175歳になるまでエホバ神に仕えた族長アブラハムについて,彼は「老人となり年満て」死んだとしるされています。―ピリピ 4:11。創世 25:8。
今日でもエホバ神は確かにご自分の忠実なしもべたちに報いをお与えになります。事実,幾十万人もの忠実なエホバのクリスチャン証人はそのことを立証できますし,この「ものみの塔」誌に掲載されてきた彼らの生涯の物語はその証拠となっています。また,大ぜいの証人が出席するので,彼らの幸福な状態がたいへん顕著に見られる,証人たちの大規模な大会にもそうした証拠を見いだせます。
それにもちろん,聖書が繰り返し差し伸べている将来の報いに関する希望もあります。イエスはご自分の追随者が「正しき者の復活の時に報い」られることを保証されました。また使徒パウロは復活に関する力強い説明の結論でこのことを保証し,こう述べました。「然れば我が愛する兄弟よ,確くして揺くことなく,常に励みて主の事を務めよ,汝等その労の,主にありて空しからぬを知ればなり」。同様にパウロは当時のクリスチャンの奴隷たちに語りました。「汝ら何事をなすにも人に事ふる如くせず,〔エホバ〕に事ふる如く心より行へ。汝らは〔エホバ〕より報として嗣業を受くることを知ればなり」。―ルカ 14:14。コリント前 15:58。コロサイ 3:23,24,〔新〕。
エホバの原則を堅く守り,エホバに喜ばれることを行なう人にエホバ神は確かに報いをお与えになります。そのような人たちは今報いにあずかるとともに,将来の神のご予定の時に受ける報いを待ち望めます。これは利己的であるどころか,ヨシュアがイスラエル民族に思い起こさせた次のことばどおり,エホバの言われるとおりを信ずることにほかなりません。「汝らの神エホバの汝らにつきて宣まひし諸々の善事は一も欠る所なかりき皆なんぢらに臨みてその中一も欠たる者なきなり」。(ヨシュア 23:14)ですから,エホバ神からの報いを信仰をいだいて待ち望んでください。
-
-
聖書に出てくる名前の背後にある意味ものみの塔 1971 | 9月1日
-
-
聖書に出てくる名前の背後にある意味
今日たいていの国でそうですが,それ自体特別の意味をもつという名前はあまりありません。赤ん坊が生まれると,友だちや親族の者の名前をもらってつけるかもしれませんが,その名前のほんとうの意味を考えることはまれです。
しかし昔はそうではありませんでした。聖書の原語(ヘブル語,アラム語,ギリシア語)では,人や場所また物の名前に意味がありました。
人の名前
子どもにつけられた名前は,多くの場合,その誕生の時の状態,または父親あるいは母親の感情を反映しました。たとえばエバは,最初に生まれたむすこにカイン(ヘブル語では「生み出されたもの」を意味する)という名前をつけました。「我エホバによりて一個の人を得たり」と彼女は言っています。(創世 4:1)アベルが殺されたのちに生まれたむすこに,エバはアベルの代わりと考えて,セツ(「定められた,代わりの」)という名をつけました。(創世 4:25)イサクは,ふた子のむすこの弟のほうにヤコブ(「押しのける者,くびすをつかむ者」)という名前をつけました。なぜかというとこの男の子は,
-