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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1981
塔81 2/1 30–31ページ

読者からの質問

● 士師記 4章4節からすると,サムソンやギデオンなどと共にデボラをも古代イスラエルの裁き人の一人とみなすことができますか。

士師記 4章4節の聖書の記述は次の通りです。「さて,丁度そのころ,ラピドテの妻で,女預言者のデボラがイスラエルを裁いていた」。それより前の士師記 2章16節はこう述べています。「エホバは裁き人を起こされ,それらの者が彼らを略奪者の手から救った」。ですから,裁き人の主要な務めはイスラエルをその敵から救い出すことであると言えるでしょう。それで,デボラが「丁度そのころ,……イスラエルを裁いていた」という士師記 4章4節のくだりは,デボラが男性の地位を侵害し,イスラエルの裁き人としてのすべての務めを果たしていたという意味ではないと思われます。デボラはサムソンやギデオンなどの裁き人とは異なり,全イスラエルを裁いたり,その救出者つまり「救い主」として行動することはありませんでした。事実,ネヘミヤ記 9章27節(新)では,「裁き人」という言葉の代わりに,「救い主」という言葉が使われています。―士師 3:9,15と比較してください。

女預言者であったデボラは,その問題に対するエホバのご意志をバラクに告げました。エホバはデボラを用いて,敵を打倒するための裁き人として仕えるようバラクを召されました。バラクはデボラに自分と一緒に行くよう求めはしましたが,デボラではなくバラクがエホバの備えられた「救い主」としての役を果たしました。ですから,イスラエルの裁き人の職務とふつう結び付けられている務めすべてをデボラが果たしていたとはとても考えられません。その務めの中で最も顕著なものは,諸部族を率いてエホバの敵と戦うことでした。

ですから,デボラを女預言者と呼んでも間違いではありませんが,彼女がイスラエルにおいてある程度の裁きを行なったとしても,厳密な意味でそうしたわけではありません。デボラはイスラエルにおける男性の裁き人と全く同等の立場を占めていたのではありません。士師記 4章5節はこう述べています。「彼女は,エフライムの山地,ラマとベテルの間にあるデボラのやしの樹の下に住んでいた。イスラエルの子らは裁きのために彼女のところに上って行ったものである」。生ずるであろう難しい問題に対するエホバの答えをイスラエル人に与えることは,デボラの上にエホバの霊があったので可能でした。

それとは対照的に,バラクは確かにイスラエル人に救出をもたらした人でした。ここで引き出せる道理にかなった結論は,バラクがその語の表わす完全な意味において裁き人であったということです。そしてこの結論は,バラクが古代イスラエルの裁き人の一人として名を挙げられているヘブライ 11章32節と調和します。ですから,「聖書理解の助け」(英文)という本は,その980ページにあるイスラエルの裁き人の表の中にデボラを含めていないのです。

● ヘブライ 10章24-29節で,使徒パウロが集会の重要性を論じたすぐあとにゆるされない罪について語っていることから,クリスチャンの集会を欠かすことそれ自体がゆるされない罪になると言えますか。

クリスチャンの集会に出席するようにという命令に従わないことは,エホバの僕にとってゆゆしい問題であり,身に破滅を招く結果になりかねません。しかし,ゆるされない罪を犯すということにはもっと多くの事柄が関係しています。

ヘブライ 10章全体を読んでみると,この問題を理解しやすくなるでしょう。使徒はまず,律法下での犠牲が罪の許しを備えるものとはならず,イエス・キリストの犠牲にかかわる来たるべき良い事がらの影であったことを指摘しています。エホバは罪を取り除く完全な犠牲としてイエス・キリストを備えてくださいました。これは「新しい契約」に固有の備えです。使徒は,『わたしたちの希望を公に言い表わすことを,たじろぐことなくしっかり保つ』よう励ましています。(ヘブライ 10:23)どうすればそれをしっかり保つことができますか。パウロはりっぱな業を鼓舞し合うために定期的に集まり合う必要性を指摘し,クリスチャンの集会を軽んじるというある人々の習慣に陥らないように勧めています。むしろ,わたしたちはそのような集会に出席し,『その日が近づくのを見てますますそうする』べきです。―25節。

このような背景に立脚して,使徒はさらにこう続けているのです。「[というのは(英文新世界訳字義訳)]真理の正確な知識を受けたのち,故意に罪をならわしにするなら,罪のための犠牲はもはや何も残されておらず,むしろ,裁きに対するある種の恐ろしい予期と,逆らう者たちを焼き尽くそうとする火のようなねたみとがあるのです。だれでもモーセの律法を無視した者は,ふたりか三人の証言に基づいて,同情を受けることなく死にます。では,神の子を踏みつけ,自分が聖化を受けた契約の血をあたりまえのものとみな……した者は,はるかに厳しい処罰に値すると,あなたがたは考えないでしょうか」― ヘブライ 10:26-29。

したがって,26節で始まる段落の冒頭に出てくる「というのは」という接続詞は,単にクリスチャンの集会に出席するようにという勧めにだけつながるのではなく,その前に述べられている事柄すべてに結び付いています。人はキリストを通して備えられる救いのための神の方法を受け入れ,この備えに対する認識を保ち続けなければなりません。その際に,集会に出席することは,人が信仰に強くあり,立派な業に活動的でありつづけるためにエホバが備えてくださった手段の一つであることを思いに留めている必要があります。これがその通りであることは,使徒が29節で述べている事柄によってもさらに確証されます。そこでパウロは,「神の子を踏みつけ,自分が聖化を受けた契約の血をあたりまえのものとみな……した者」にどんな処罰が臨むかを示しています。

ですから,ヘブライ 10章24,25節をその背景から切り離して論じ,ゆるされない罪を犯す者のことを述べた際に使徒の言わんとしていたのは習慣的に集会を欠かすことそのものなのだ,などとほのめかすべきではありません。言うまでもなく,人は集会に出席しないことを「習慣」にしている場合,その人は自分の霊的な益に反して行動しており,信仰において弱くなったりクリスチャンの業において不活発になったりするゆゆしい危険にさらされていることになります。そうなると,人はイエス・キリストの贖いの犠牲を実際に否認したりそれを真剣に受けとめなかったりして,永遠の命を失うことになりかねません。

ヘブライ 10章26-29節に述べられている罪は,罪人が誠実な悲しみのうちに悔い改め,神の憐れみを求めてイエスを通し神に願い出ることのできるような罪には当てはまりません。ここに述べられている罪を犯した人は実際に神のみ子を自分たちの救い主ではないとして退け,その犠牲には贖いの価値がなかったとみなしているのです。―ヘブライ 6:4-6と比較してください。

そのような人は正確な知識に対して,また神の聖霊の働きに対して罪を犯しているのであり,その人が悔い改め,キリストを通して備えられる救いのための神の備えを利用する可能性はありません。神はそのように故意に罪を犯す者を救うための別の手段を設けてはおられないのです。

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