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  • 台湾における王国を宣べ伝えるわざは迫害にもかかわらず繁栄した
  • 目ざめよ! 1973
目ざめよ! 1973
目73 2/8 25–26ページ

台湾における王国を宣べ伝えるわざは迫害にもかかわらず繁栄した

「目ざめよ!」誌の前の二つの号で,1928年から1947年までの期間におけるエホバの証人の活動に関する記事が連載されました。日本の占領下で,数人のエホバの証人がその信仰のゆえに投獄され,殺されました。第二次世界大戦後,台湾は中華民国の支配下にはいりましたが,反対者たちは政府に対して引き続き,エホバの証人のことを偽って伝え,証人は相変わらず苦しめられました。この号では,「良いたより」が阿美族の多くの人々に伝えられた当時の模様を,「1972年のエホバの証人の年鑑」(英文)からお伝えします。

1947年,上海の一証人が教職につくために台湾の新竹に移転してきました。その証人は出井夫妻に会って,台湾の東部でエホバの証人の阿美族の兄弟たちが孤立していることを聞きました。この情報は彼を通して,上海のものみの塔協会支部の監督スタンレー・ジョーンズに伝えられました。彼はパートナーの宣教者と中国にきたばかりのところでした。協会はジョーンズ兄弟の台湾訪問を取り決めました。1948年4月にジョーンズ兄弟が到着した時,出井兄弟とひとりの中国人の兄弟とが空港に彼を出迎えました。ジョーンズ兄弟はぜひとも阿美族と連絡を取りたいと思っていたので,台北から約320㌔南の台南へ汽車で行くことにしました。東海岸への近道はその時洪水で切断されていたので,そうしなければならなかったのです。それは,10年ほど前に大江,香坂両兄弟が行ったのと同じ道をたどることを意味しました。

ジョーンズ兄弟は旅の途中で出井姉妹の家にしばらく滞在しました。当時姉妹は,台南と高雄の中間にある村に住んでいました。ジョーンズ兄弟は台東に着くとただちに警察と交渉し,阿美族の人びとと集会を開くことを許可するという確認を得ました。何度か立住生しながら3時間後に一行は池上に着きました。生まれて初めて西洋人の兄弟に会って,阿美族の証人たちはほんとうに喜びました。その中には,ジョーンズ兄弟に会うためになんと48キロも歩いて来た人がいました。およそ600名ほどの聴衆に対する講演の中で,ジョーンズ兄弟は,エホバの証人の世界的な組織,また本部が運営されている様子,兄弟たちの霊的な福祉を図るうえで支部が果たしている役割などを人びとが理解するよう助けることに努めました。彼は大規模な国際大会のことも話し,そうした大会のいくつかを写した写真を回して見せると,大きな反響がありました。その時,聖書研究によって献身の段階にまで進んでいた人が大ぜいいたので,一日に261名の人がバプテスマを受けました。

ジョーンズ兄弟はそれを機会に,集会の司会の仕方,伝道の方法,野外での奉仕時間や再訪問,家庭聖書研究などの簡単な報告の仕方を兄弟たちに示しました。それらの報告はまず新竹に送られ,そこから上海に送られて,中国支部の報告に加えられることになっていました。

支部のしもべが台北で当局者に会って,エホバの証人の兄弟たちに完全な崇拝の自由が与えられるという約束を得たにもかかわらず,彼が上海に戻ってから受けとった報告によると,阿美族の兄弟たちにとって事情は良くなっていませんでした。警察は兄弟たちを悩まし続け,業を中央政府に登録しなければ集会を開いてはならないという態度を変えませんでした。

いずれにせよ,ジョーンズ兄弟の訪問にはいくらかの反応がありました。なぜなら,1948年8月には台湾で66人の伝道者の活動が報告されたからです。

1948年の末にジョーンズ兄弟はふたたび台北を訪れました。このたびは上海出身のある中国人医師の助けを得て,政府のいろいろな役人にエホバの証人の業の真の性質を説明しようとしました。そして,兄弟たちの身分および王国の業を遂行する権利に関し,内務長官に明確な文書を作成してもらうよう努力しました。ジョーンズ兄弟は上海に戻って内務長官から手紙を受け取りましたが,その内容は,ジョーンズ兄弟が台湾全土を旅行し自由に宣べ伝えることを許すということだけでした。台湾の兄弟たちには何の保証も,何の自由も与えられていなかったのです。なんという失望でしょう。

しかし,困難な事情のもとにあっても,王国の音信は山岳地の人びとにも広まりはじめました。彼らの中には,迷信的な月崇拝よりも満足のゆくものを捜し求める人がいました。それら山岳地の人びとの多くは依然として非常に原始的な生活をし,第二次大戦の終了とともに首狩りをしなくなったとはいえ,悪霊崇拝の影響を受けていました。ブナン族のタカコという結婚して間もない女性が,いちばん近い海端の駅から8時間歩いたところに住んでいました。タカコさんはある時,めったに行ったことのない海端で聖書を1冊求めました。聖書を読んだ結果,彼女はそれまでの迷信的な習慣をいくつかやめました。彼女は夫の反対を受けて離婚され,1つになる赤ん坊と着の身着のままで村を追い出されました。タカコさんは友人の家に身を寄せて聖書を読み続け,自分の学んだ事柄を他の人に話し続けました。

1950年の3月ごろ,その夫婦は和解しました。その時夫は新しい職場の近くに住むため海端に移っていました。ふたりには聖書を調べてエホバの目的を学ぶ機会がかなり多くなりました。ふたりはいっしょに,秘密裏に行なわれる集会に出席しはじめました。そのために家から2時間も歩かねばならないことがしばしばありました。ある時警察に呼び止められて検閲を受けました。夫の聖書は取り上げられましたが,タカコさんの聖書は赤ん坊のおむつの中に隠してあったので無事でした。これを小さな始まりとして,彼女の部族の関心を持つ人びとからなるいくつかの小グループが,数個の部落で成長しました。1953年5月13日にタカコさんはバプテスマを受け,1957年には3か月の訓練を受けて特別開拓者という全時間伝道する奉仕者に任命されました。彼女が熱心に働いた結果,ブナン族のいくつかの部落に住む約60人が王国の音信を受け入れました。

1940年代に,島の南端に近いパイワン族の地域で働いていた,ひとりの阿美族の人が,日本語の「ものみの塔」を手に入れました。その人は読んだ事柄が気に入ったので,さらに数冊の雑誌を求めました。彼は,この新たに見いだした真理を仕事仲間である数名のパイワン族の人に話しました。同じような方法で,タイヤル,ルカイ,ヒューマなどの他の部族も王国の良いたよりに接するようになりました。

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